時間は未来から現在、過去へと流れる?!

時間は普通、過去から現在、未来へと流れていくという認識です。

苫米地という脳科学者の著書に、それと逆のことが書かれていました。

時間は未来から現在に流れているというのです!過去は現在が決めるとも。

最初は、単に、「未来」と「過去」を言葉として入れ替えただけだと思いました。あるいは、誤植(文字のうち間違い)だとも。

でも、確かに「未来から現在、過去への時間は流れていく」と書かれていました。

意味がわからなないまま、なんかモヤモヤした気分でそのまま放置しておいたのですが、しばらく考えていたら、ああ、こういうことか!と閃きました!

「時間」という既成概念に囚われていたから、意味不明だったのですが、「時間」を「人の意識の流れ」という風に読み替えるとその通りだと納得できたのです。 それは、こういうことです。

時間は人の意識の流れ、あるいは、世界を認識するひとつの尺度と言い換えてもいい。

だから、未来は人の意識の中にしかないことになる。

人の行動は、意識(意志や欲望)が先行する。

無意識、本能的な行動というのは、瞬間的な反応としてしか存在し得ない。

だから、未来を作り出すのは、人の欲望や意識だ。それが無いとしたら、未来がないということだ。

未来を輝かしいものにしたければ、自分が実現したい夢や目標があるなら、それを、既に実現したものとして可能な限りリアルにイメージすること自体が、未来を創造することにつながる。

だから、現在の結果が未来になるのではなく、未来の結果が現在なのだと考える。

未来から現在に時間は流れることになる。

現在が過去を作るというのも、その流れですが、過去の意味を決めるのは、現在(の自分)だと考えれば、納得できます。

いわば、これは自己実現、夢の実現方法なのです。

みじめな未来、さえない未来、嫌な未来を描く者は、現時点でもみじめでさえないだろうし、逆に輝かしい未来、夢を実現し充実した人生を送っている自分を未来に描く者は、今も輝いていることでしょう。現在は未来が作る(結果)なのですから。

過去を後悔と共に思い出す(評価)する者は、現在をも後悔に満ちたものにしています。

その意味においては、人は自分が考えた(イメージ)した通りになるし、感じた通りの過去を持つことになります。

人の世界は脳が作り出す情報だとすると(科学的に言えば、実際そう表現できる) 、「意識を変えれば世界が変わる」し、「人が(本心で)思うことは、全て実現する」ことになります。

成功哲学の最もポピュラーな表現として
「思考が現実になる」
というのは、世界が脳内の情報処理の結果だとすれば、
ごく当たり前のことになります。

ただ、これはあくまで概念、観念なので、そのまま世界規模で現実に当てはめることはできないはずです。他者の意思や思惑、利害関係などが複雑にからんでくるからです。自然現象も関与してきますし。

潜在意識の抵抗を解除するす方法

潜在意識

願望を成就させる方法で有名なのが、願望(欲しいものや状態)をイメージして、潜在意識に刷り込むという方法があります。

しかし、どんなに理想的なイメージや心底欲しいと思っている物事をイメージしても、イメージしたときに、嫌な感じ、引け目、恐れ、欠乏感などを感じたら、逆の方向へ行ってしまいます。

なぜか?

無理なく実現を願える目標を設定する

例えば、モデルのような容姿と聖母のような優しさを持った女が欲しいとイメージしたとしても、それが自分にとって高嶺の花だと感じたり、縁が無いと感じるようでは、それが欠如している状態をイメージしているのと同じことになってしまうからです。

だから、最初は自分にとって少し手を伸ばせば手が届くことをイメージする方が確実に前進できると思います。

その判断の基準は、自分の感情です。
いい気持ち、ワクワクするようなら、Go!
欠乏感や劣等感などマイナスの感情なら、修正が必要です。

それと重要なのが、「潜在意識」に願望を刷り込むということですが、ただ頭で考えたり、言葉を唱えたりするだけでは、顕在意識(通常の意識)で願望を認識しているだけのことが多いと思います。

顕在意識に言い聞かそうとしていても、潜在意識では、「そんなの(今の自分では)ありえない!」と本心で(潜在意識)が感じていたら、無駄どころか、逆の方向へ行ってしまう危険すらあるようです。

実現可能と信じることができることからイメージすることが確実に前進するためのコツです。

目標は、段階を経て上げて行けばいいのだと思っています。(最終的な高い理想は必要だと思いますが)

それと、少しくらい後退しても、停滞期があっても、あきらめないことです。

テレビの脳への悪影響

テレビの長時間視聴は、言語知能などをつかさどる脳の前頭極に悪影響を与えます。東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳科学)と竹内光准教授(同)らのグループが発表しました。教師方々の実感でも、テレビばかり見ている子供は、読解力が劣り、注意能力も劣っているとのことです。

大人でも影響はあります。テレビばかり見ていると、何かをしようという意欲が衰え、怠惰になり、思考が働かず、受け身の態度が身についてしまいます。テレビが民衆の洗脳装置だということは、放送する側、それを管理する側(政府など)はちゃんと認識しています。実際に、国民世論を誘導したり、(どんなに自分たち一般国民の不利益になる政策を実施したとしても)政府に反抗心を抱かせないよう洗脳するために利用しているようです。

日本のテレビにやたら挿入されてるテロップ(字幕)の目的は、視聴者に「ここで笑え」「これを注目しろ」「ここで感動しろ」と、感情や注意の焦点にまで指示を出すことにあります。視聴者は自分で考え結論を出さなくなり、テレビの指示の通りに自分の感情を同期させるようになるのです。これが洗脳されてるということの実態です。

「洗脳」という言葉が誇張だと感じる人でも、テレビから流れてくる多くの情報は、自分の人生にとってどうでもいい情報、自分とはまったく何の関係もない情報だと感じていると思います。

これは、テレビを視聴してる間は、自分の人生が止まっているということを意味します。もちろん優れた番組や必要なニュースもたまに流れますが、ほとんどは無駄、無意味な情報だとは思いませんか?テレビ長時間の視聴は人生の時間の浪費だと思います。

テレビの長時間視聴は危険!

東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳科学)と竹内光准教授(同)らのグループが発表によると、「テレビの長時間視聴が、言語知能などをつかさどる脳の前頭極に悪影響を与える。」とのことです。

教師の実感としても、テレビばかり見ている子供は、読書能力が劣り、注意力も散漫で集中力に欠けているそうです。

脳の前頭葉は、意欲、創造、感情、思考、注意(集中力)に関係する、人間として最も重要な機能です。それがテレビの長時間視聴で、発育が阻害されるというのです。

成人にとっても、長時間のテレビ視聴で、創造力は喪失し、感情は容易に操られるようになります。惰性で見続けるようになり、意欲が消えて怠惰になり、思考が働かず、受け身の人格が形成されるのです。

テレビで放送される情報は、ほとんどがどうでもいい無駄で無意味な情報だと言ったら言い過ぎでしょうか?自分の人生にあまり重要な意味を持たない情報と言えば、納得する人は少なくないと思います。

その重要度の低い雑多な情報が、際限なく脳に流れ込んでいると、少なくともその間は、有意義な人生は止まってしまうのは確かです。しかも、大部分のテレビ情報は、マスコミが大衆操作目的で制作・編集・演出されたものと言えます。

最近は出演者の発言をことごとく字幕(テロップ)にして流してますが、この意図は、視聴者に「ここで笑え」「これを注目しろ」「これにショックを受けろ」と指示し、視聴者に自分で考え判断し結論を出させないようにするためのものだそうです。テレビが感情まで指示し操作してるともいえるのです。

現代に日本では、大人でさえ自分で考え行動する自発的な人は少ないようです。会社でも指示されないと何もできない人間や、マニュアルがないと恋愛もできない人が多いといわれています。 前頭葉が機能不全でロボットのようだという人もいるくらいです。 テレビを子供の頃から長時間見続けてきた結果かも知れません。

怠け者の言い訳!?

何か一つのことに集中し続けられるのは、努力というより性質や性格のような気がすることがあります。
「何かをしていないと気がすまない」というのは、自己充足感とでも言うようなものが不足しているからと考えることもできると思います。

どちらも、(社会的に評価されるような)何事かを成し遂げるには、必要な気質であることは確かでしょう。
それを自分自身に当てはめて考えると、極度に集中力があるほうではないが、ある程度の集中力はあると思っています。

何かをしていないと、ひと時も落ち着かないというわけではないし、一人でぼーっとリラックスしているのは結構好きです。かといって、何となくダラダラ時間が過ぎていくに任せているのは、人生を無駄にしているような気がします。 だから、僕の気質は、それらの中間に位置するような気がします。

世間的には、人に影響を与えるような何事かを成し、経済的にも金をより多く稼げる人が社会的には評価されます。 逆に、ぼんやりダラダラ生きている人は、他人に迷惑などをかけなくても、批判されたり、最近では負け犬と言われたりもする世の中です。

ちょっと皮肉な言い方をすれば、何事かを成しとげるような人たちは、何事かをせずには居られない、じっとしてただこの世に存在しているだけでは、自己充足(充実)感覚が得られない人たちなのだから、別に偉いとか立派とかいうのとは、本当は違うのかも知れません。

自分自身の本質を評価してくれる人というのは、 「ただこの世に存在してくれているだけでいい」 と言ってくれる人のことだと思います。

でも、大抵は、何なにをしたから偉いとか外見が美しいから好きだとか、優しくしてくれるから一緒にいたいだとか、何かしら自分が得るものや、相手がしたことに対する評価に基づき、相手の存在そのものを評価した気になっているのかも知れません。

生きる上で大切なことは、持って生まれた気質や特質に逆らわずにそれを活かして、自然や周囲と一体化して適応してたんたんと最後まで生き抜くことではないかと思います。

何かをするとかいうことは、生きる目的を自分なりに設定しないと生きてゆけない人たちが作り出した方便で、存在論的に言えば、二次的な問題のような気がしないでもありません。

脳内現象としての世界

心がイメージを作り出し、それを頭脳で解釈しているのが人間の世界です。我々が知覚しているのは、物理学が対象とする物理的なエネルギーによる刺激ではなく、意味体系の世界なのです。物理的刺激(エネルギー)は、意味体系を紡ぎだすための触媒、情報に過ぎません。

例えば、DVDの形や組成材料をどんなに緻密に分析しても、その用途も存在意味もわかりません。それはDVDプレーヤーでそこに記録されているデジタル信号を読み込み、モニターとスピーカーで画像と音声に変換し、さらに人の頭脳でその意味を解釈して始めて、何なのかがわかるのですから。

今の水準の、物理学を代表とする科学や化学では、世界の物理的側面のごく一部しか解明できないでしょう。世界の意味、宇宙の成り立ちの本当のことは、今の科学の方法論では解明しようがないと思います。それは物体としてのDVDの素材を分析するのと基本的には同じ方法論だからだです。

人体もある意味で、DVD、あるいは、電波を受信し人の脳が理解できる形に変換するラジオやテレビと同じなのかも知れないと思います。外界に溢れているエネルギーのうち、人にとって意味のあるものだけを受信し、解釈し、イメージ化して意味づけし、それに基づいて行動を起こす。これが生物がしている活動なのですから。いわば、私たちは、脳内現象として、世界を体験しているのです。

だから、客観的な外界というのは、存在しえないのです。生物種によって異なる、感覚器官と知覚神経と脳によって解釈する個別の世界は存在します。物理的外界は、我々を含めた全てを包含し、互いに共鳴する限りなく巨大なエネルギー場と呼ぶべきものだと思います。

我々は、関心のあることか生存に関わることしか認識できません。それ以外の情報は脳裏に入ってこないのです。我々にとっての現実とは、関心のあるごく限られた情報を素に、自己都合による理屈と判断と解釈によって作り上げた世界に過ぎません。

例えば、空間の変化は、時間の変化として感じられますが、変性意識状態では、空間の変化と時間の変化は連動しなくなるのです。時間と方向感覚は消失します。今、この瞬間が世界の全てになのです。方向感覚は、自分が進む方向が前方になりますが、左右、後方の感覚は消失します。

このように、三次元を構成する重要な要素である、時空間の感覚さえ、意識状態によって、大きく変化したり消失することもあるのです。楽しいことをしてるときは、時間はあっという間に過ぎ去るか、時間経過の感覚は希薄です。辛いことをしてるときは、時計の針は遅遅として進まないという経験は、誰にもあるとおもいます。

このようなことを考えると、世界を作るのは私たち自身なのです。客観的世界など存在しません。私たち一人一人の参加、関わり無しには、世界は存在しえないことは、おぼえておきたいものです。

ポテトチップ好きの憂鬱

お客様には加工食品は良くないとアドバイスしてますが、ジャンクフードの代表格であるポテトチップスがかなり好きです。

ポテトチップスを食べながら、ツタヤでDVD(映画)を借りたり、パソコンの動画配信サービスの映画やドラマを観るひと時が幸せだと感じます。

アメリカの連続ドラマを連続して何シリーズも観てると、知らぬ間に、ポテトチップスを二袋も食べているときがあります。そんなときは、少しお腹がもたれる感じと気持ち悪さがあって、後悔してしまいます。

ポテトチップスやフライドポテトには有害な発がん物質が含まれているのを、つい最近知りました。食べ過ぎは体に毒だとは薄々感じていましたが、何が原因(のひとつ)かわかりました。

その毒素の名前はアクリルアミドといいます。アクリルアミドは接着剤や塗料、紙・繊維などの仕上げ剤として工業的に使われており、人体に有害で、中枢神経麻痺を起こすことが分かっている化学物質です。動物実験では発ガン性があることも確認されています。

農林水産省のホームページによれば「アクリルアミドは遺伝子を傷付ける作用を持っていることから、例えごく微量であったとしても健康に影響を及ぼす可能性を否定できないため、この量までなら食品を通して食べても大丈夫という許容量を決めることができません」と書かれています。

しかし、ポテトチップスやフライドポテトは、ジャガイモを油で揚げただけです。アクリルアミドはどこからくるのでしょうか?加熱調理する前のジャガイモにはアクリルアミドは含まれていませんが、ジャガイモに含まれるアスパラギンというアミノ酸が高熱(100℃以上)で加熱される間に、アクリルアミドに変化するのです。

ポテチにアクリルアミドが高濃度に含まれていることを最初に発表したのは2002年4月、スウェーデン食品庁です。2002年6月末にはWHO(世界保健機関)が専門家会議を開催し、食品中に生成するアクリルアミドが健康に関する重要な問題になるだろうと認めました。

日本でも厚生労働省が2002年10月31日にポテトチップスやかりんとうなどの加工食品中に発ガン性が疑われるアクリルアミドがかなりの量で含まれていることを発表しました。

ポテトチップスやフライドポテトは、大手外食チェーンや大手食品メーカーにとってドル箱商品です。こうした企業はマスコミにとって、大スポンサーです。マスコミがポテトチップスの毒性の報道を控えたとしても(自主規制)不思議ではありません。

アクリルアミドはアスパラギンというアミノ酸とブドウ糖や果糖など一部の糖類が一緒に120℃以上で加熱されるとできます。アスパラギンも糖類も穀類や野菜等に含まれるから高温加熱調理によって生成されるのは避けられません。アスパラギンはポテチやフライドポテト以外にも含まれていますが、これらに特に多く含まれているのは確かです。

ポテトチップスやフライドポテトを全く食べない選択枝もありますが、食べて幸せな気分になれるなら、たまに食べる程度ならいいかなとも思います。要は食べ過ぎないようにすることがいい体調でいるためには必要なんだと思います。

大切なのは生きてること

生きていることが大切

毎日、職場や学校や家庭で、体力と気力も使い果たしたことはありませんか?

いつも元気で明るくなんて、理想かも知れないけれど、僕にはできない相談です。

そんなとき一言つぶやいてみます。

「いま、ここに、生きているだけでいい」

本当はそんなこと、言ってくれる人はいません、めったには。
同僚、上司はもちろんのこと、親兄弟、親戚、親友、知人でもあまり期待できないかな…

でも、一番、愛とまでは言わないけれど、思いやりと肯定感に満ち溢れている表現は、これだと思います。

「ただ、そこにいてくれるだけでいい」

いまの、日本とは限りませんが、生きる価値って何かを成すことだと思います。ただ生きているだけでは十分でなくて、何か創造的というより、生産的、お金に換算できることをすることに価値が置かれているのは、否定しようもない事実です。

そんな価値観を微塵も疑問に感じずどっぷりと浸かり、しゃにむに働いている姿がそこらじゅうに見えます。満員電車の人たちはみな一様に不機嫌か、雑誌や携帯の画面に見入っています。市街地で子供も含めて、いまどき、無目的にぶらぶらしている人は、渋谷のセンター街やコンビにの前でしゃがんでいる若者以外、あまり見かけることはありません。

藁しべ長者の話に似ていますが、僕が好きな話に「三年寝太郎」というのがあります。寝てばかりいる太郎に、ちゃんと働かないと金持ちになれないと説教するのですが、金持ちになったらどうなる?という太郎の質問に、働く必要がなくなって毎日寝て暮らせる、と答えが返ってきます。すると太郎は、それなら、俺はいま、もうそうしている、と答えるのが落ちです。

なんか怠け者の言い訳、屁理屈のようにも感じますが、でも、これは生きる目的や働く目的についていろいろと考えさせてくれる話です。

なんで働くのか?なんで働かないといけないのか?なんでいま、ここに生きているだけじゃいけないのか?それと、今の生きる価値観というのは、学校でも会社でも家庭でも、将来のために今を犠牲にしても準備し努力するというコンセプトが根底にあるように感じます。でも、これって永遠に(死ぬまで)、実現すべきゴールを先送りするってことだと思いませんか?

「いま、ここで、すぐに実現すること、やりたいことをはじめること」僕が高校生の頃から考えていた生きるコンセプトです。キャッチコピーは、

「今がすべて」

刹那的に聞こえる表現ですが、確かに存在するのは、今、この瞬間だけです。過去も未来も記憶と予想、思考の中に存在する、いわば架空のものだと思います。それを実現するのは、今、この瞬間の思考と行動しかありません。

死ねば、本人にとっては、(少なくとも)物質的なものは全て無に帰します。物質的なものやそれを生産するための産業や経済は、方便、方法、手段に過ぎないことを、いま、この時点で再認識することが必要なのではないでしょうか?

僕は整体師として仕事をしてますが、身体の本質は骨格や筋肉や血管や神経などの物質としての細胞ではなく、それらが織り成して成り立っている機能だと感じています。

身体機能を統合する脳の働きを精神と呼ぶなら、人間としての存在の本質は、肉体に基盤を置いて機能する精神でありその動きとも言える心(感情、情緒)だと思います。

人と接する仕事を天職として

親子、兄弟、友人、知人からはじまって、職場など、対人関係、人間関係に関して全く問題がない人はいないと思います。

僕も同様です。現在進行形ではなく、過去完了形になりましたが、人間関係にトラウマがあると言ってもいいかも知れません。

そのせいか、今までは、正直なところ、一番気が休まるのは、一人でいるときでした。今は必ずしもそうではありません。ある程度は価値観と感性が合う人なら、ずーっと一緒にいてもリラックスできますし、寝食を共にしたいとすら思うようになりました。

20代はじめから30歳くらいまでの2年半ほど、海外を放浪していた時期があります。当時(1980年年代)は、経済成長真っ只中で、デザインやイラストの技術があったこともあり、1年ほど日本を離れて帰国しても、すぐに仕事にありつけたいい時代でした。

人間関係の問題を抱えていた当時ですが、日本での人間関係から隔絶した海外では、むしろ初対面の外国人や同胞でも、気軽に挨拶をかわし、話がはずみ、家を訪問したりすることすらあります。なので、生まれ持った性質からすれば、僕はむしろ、人が好きなんだと思います。幼児の頃は、人懐こかったらしく、営業向きだと言われたことすらあるほどでした。

人間関係で一番嫌いなのは、裏切りです。僕のトラウマの原因にもなってます。

適当な態度や自己保身のための嘘、利己的な態度などは、自分にとっては許容範囲ですが、自分に見せる顔と態度と、本心が著しく違っていたりするのは、それによって個人的にも社会的にも手ひどい傷を負った経験がいくつかあるので、絶対に許容はできないようになってしまいました。

そんな自分が人と直接接する仕事をするというのも、皮肉というか面白いと思いますが、なぜ、そんなことが可能かといえば、自分個人に対する好き嫌い、相性の良し悪し、価値観の相違はともかくとして、接する目的に関しては、絶対に一致しているという安心感、信頼感があるからだと思います。

さらに、金銭を受け取る立場で接しているから、自分と合わないと感じた人や、目的を達成できないと感じた人は、自然に離れていくというのも、わかりやすく、むしろ清清しいくらいです。

必ずしも、個人生活(プライベート)の細かいところまで教えあう関係、甘え合う関係が、深い人間関係だとは思いません。個人的なことはあまり知らなくとも、目的や価値観を共有できて、裏切りの入り込む予知のない、利害も感情も対立する必要性のない関係が、僕にとって安心できるし疲れないのです。

その意味では、思春期から中年へさしかかる頃までの時期、自分に欠けていたというより、避けてきたような人間関係、人との接し方、付き合いを、いま、整体師という仕事を通じて取り戻しているのかも知れないと思うことがあります。

たとえ一時的な付き合いだとしても、クライアントさんは、僕に生きる意義と生活の糧を与えてくれる、いまの自分にとって、かけがえのない存在です。

仕事とは?

仕事とは、経済面における人と人とのコミュニケーションだと思います。

商品、製品、サービスは、コミュニケーションを媒介するものです。

お金は、仕事を遂行するための、いわば血液です。

だから、仕事は生き物なのです。

仕事上のコミュニケーションは、基本的には婉曲話法で行われます。

直接相手に感情を伝えたり、人間性を現すことは、ビジネスの世界ではマナー違反でしょう。それができるのは、プライベートの関係になってからです。

商品やサービス、仕事のやり方を通じて、自己と相手の人間性を推測し感じ取るのが、ビジネス上のコミュニケーションのやり方です。

未熟な僕は、まだそれが完全にはできていませんが、心がけてはいます。

我々は過去と未来の橋渡しをする存在

アフリカ人(アフリカに昔から住んでいる黒人)以外の人類のDNAには、4%前後の割合で2~4万年前に絶滅したとされるネアンデルタール人のものが含まれているそうです。そのことを知ったとき、自分の存在が、はるか昔から連綿と受け継がれてきた命との繋がりを感じました。

自分の遺伝子の中に、もう一つの人類であり過去に絶滅したネアンデルタール人のものが入っていることを知ったとき、さらに遡れば、類人猿や四足の哺乳類、爬虫類、両生類、魚類…とも自分の命が過去の地球上に存在し生きていた生命とも繋がっていることが感じられたのです。

人類学の最新の知見によれば、DNAの観点から観れば、人種は無いと言ってもいいそうです。人種と言えるほどの違いはないそうです。我々人類の外見や言語、文化の差は、住む地域の環境に適応し変化したもので、本質的な違いはないということです。

それを知れば、人種差別や民族、文化によって優劣をつけたり差別することには、本質的に無意味であり、科学的根拠がないのに差別することは、自らの無知と心の貧しさを曝け出している行為と言えます。

善悪の概念は、人が社会生活を送るために作り出したものだと思いますが、最大の悪、罪を定義すれば、地球に何億年も前から連綿と続き、地球環境そのものを作り出す重要な役割の一端を担っている全ての生命と環境を破壊することだと思います。生命と環境を自らの生存の必要性とは無関係に殺すことは最大の悪であり罪です。

その意味において、ひとたび事故が起これば、制御不能になり、汚染された環境の浄化も、地球の永遠ともいえる何十万年、何百万年もの時間に委ねるしかないような、稚拙で危険な技術の一つである原子力、核兵器の開発と利用は、我々の生存の基盤である地球環境に対する最大の悪であり大罪なのです。

さらに罪深いのは戦争、特に近代、現代の重火器と核兵器を用いた国家と民族間の戦争です。戦争は、直接人類とその周辺の生命を殺すだけでなく、最大の環境破壊行為でもあります。自らの命を殺すだけでなく、生存の基盤である環境をも大規模に破壊する戦争は、どう理屈をつけようと、最大の罪であり、人類の愚かさの象徴とも言える悪行だと思います。