自分の人生を生きる

自分の人生

人生は、自分の意思と欲望と都合で決めるものです。人に言われた通りに考え決断し行動する人生では、自分の人生を生きたとは言えません。

近年、日本では特に、経済的に成功したか失敗したかという単純化した人生評価の物差しが幅を利かせています。

でも、生きる価値、人生の評価を、生きる手段に過ぎない「経済」や「社会的地位」などで計ることは、人生の本質を覆い隠し、人を産業や労働など経済的システムの道具として扱う風潮を助長する結果にしかならないと思います。

僕が整体師になった一番の動機は、言うまでもありませんが、お金儲けではありません。実際、ほとんどの整体師は経済的には裕福とは言えない状態ですから。

人生の価値をより包括的に考えたとき、今までの自分の人生に一番欠けていたものが、他者と触れあい会話し理解することであり、もう一つは、他者のために自分が活動する(仕事する)ことだと気付いたからです。

言わば、45年ほど生きてきた自分の人生を折り返し地点で総括し、後半の人生をどう生きたら満足できるか、後悔しないか、より意義のある満足感のあるものにできるかを総合的に判断した結果、選んだ職業が整体師だったということです。

自分の人生を生きるとは、世間や他人の価値観を人生の選択や判断の基準にしない、自分で考えて感じて悩んで決める。その結果も自分で引き受けるということだと思います。

自分で考え行動するのが人生

整体院開業当初は、接客や営業、集客など経営のことがわからないので、経営コンサルタントの本と読んだり、営業的に成功している整体師のセミナーに頻繁に出席していました。彼らの言うことで実際に役に立ったこともありますが、失敗したこともあります。

やたら強気の成功整体師の言う通りに接客して、患者さんの顰蹙を買って通院を止められたり予約を逃したこともあります。経営コンサルも同様です。言う通りにしても本に書かれてるほど効果がないことなど普通です。なぜなら、彼らと自分では人格も価値観も能力、適正も状況も異なるからです。

似た人格や価値観の人、似た状況の人が語る成功体験は参考にはなりますが、自分の特性や状況に応じてカスタマイズしなければ、うまくいかないことが多いです。自分という人間も自分の人生も唯一無二です。自分で考え、決断し、行動する。そうすることで自分の行動の結果を引き受けることができるのです。

人の言う通りに考え、行動してるだけの人生に、どれほどの意味があるのでしょうか?たとえうまくいかないことが多くても、自分で考えて行動したことなら、後悔はしない、少ないと思います。人に合わせて、場の空気を読み同調するだけの人は、自分の人生を生きてるとは言えない、と思います。

どう生きたかが問われる

自分の人生

人生の意義や目的は、目標を達成することにはありません。自分の価値観と感情に基づき決断し行動し感じ感動すること。これこそが生きる目的なのです。どんなに社会的、経済的に「成功」したとしても、自分で考え感じ実行した結果でなければ意味はないのです。

どんなに社会的立場を得ようと、どれほどの資産を得ようと、どれほどの人間関係を築こうと、死ぬときは必ずきます。あの世に資産も人間関係も持ってないいけないのです。

今わの際に(臨終の時に)問われることがあるとすれば、どのように生きたかだけです。何を残したかではありません。それはどう生きたかの結果に過ぎません。

他人の言う通りに生きた人生は、自分の人生を生きたことになりません。つまり無価値ということです。代替が利く人生ということです。

成功や失敗は、しょせん、この世の出来事のありふれた結果に過ぎません。何も新しいことに挑戦しなければ、失敗はありません。でも、そこには進歩も学びも喜びもなく、あるのは惰性です。

そんな人生に生きる価値はありません。結果に拘りすぎると自分と人生を見失います。今が全てなのです。過去も未来も自分の脳内のイメージ、記憶に過ぎません。

自分の力を出し切る

今を精一杯生きましょう!自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の肌で感じたことを自分の感覚で認識し自分の頭で考え、自分で決断し行動するのです。

それが生きるということです。自分の人生を生きるということです。空気など存在しません。あるように皆が装っているだけです。ありもしない「空気」など読む必要はありません。

そんなことをしていると、自分の人生を失います。今わの際に後悔したくなければ、自分の人生を生きましょう!全力で!

現実を受け入れる

「現実をあるがままに受け入れる」ことは、しっかりと大地に足を着けて生きるためには必要なことだと思います。 そうすることで、世界と自分が一体になれるからです。

奇跡を起す

かの、ジョン・レノンも言っています。

「夢だけに生きたら、人生はお仕舞いだ」

夢想家、理想主義者と言われるような彼でさえ、冷徹な現実感覚の持ち主だったようです。
そうでなくては、あれだけの現実的な成功は、望めなかったということでしょう。

奇跡が起きたことがあるかどうか?

キリストのように、水の上を歩くような奇跡は起こせませんが、通常では在り得ないようなことを起こすことを「奇跡」というのであれば、そのような体験をしたことはあります。

それを具体的に人に話したことはほとんどありません。
一回か二回くらい話したことがありますが、
信じてもらえなかったように感じました。
たぶん、胡散臭がられたのだと思います。

僕の場合は、自分が危機的状況に陥ったときに、
その状況を全身で認識し受け入れた上で、
全身全霊で想いを集中させました。

それが奇跡を起こす秘訣なのかな、と思っています。
状況から逃げたら、奇跡は起きません。

生きる意味と存在の意味

人生と自分の存在の意味づけは、各個人が自己探求し自分で発見していくものだと思っています。

人も動物もエネルギーの領域では、不変であり永遠だとは思いますが、今の性格や個性や経験が自分を形づくっているとすれば、今の自分はこの人生で一回きりだと思っています。

エネルギーレベルでは、他の人や動植物、それらが構成する世界と自分とは一体だと感じることができた体験があります。

世界と一体になった体験を経た後では、地球環境を汚したり、人や他の動植物を、意味も無く傷つけたり、利己的目的のために利用し破壊するようなことは、何ら創造的、建設的な意味はなく、巡りめぐって自分をも傷つけ破壊する行為だと気づきます。

自己が無ければ、今現在体験している世界は存在しませんが、自意識過剰で自己利益のみ考えていると、世界とのつながりを感じられなくなります。

どんな物でもその物だけが独立し孤立して存在することは不可能です。全ての物事は関連しあい、支えあい、構成要素を循環させ交換しながら、存在しているのです。

バタフライ効果と身体

身体は元を質せば一つの受精卵が数え切れないくらい細胞分裂を繰り返してできたものです。

部分の(個々の細胞レベルでも)の不調が全体に影響しないはずがありません。悪い部分、症状が発生してる部分だけを、症状を取るだけの方法論で治療しても、全体として身体の状態が良くなるとは限らないのです。

人間社会、自然環境、もっと広くとらえれば宇宙も、全てがつながってて関連があります。本質的な意味では、部分に分けることはできないのです。

バタフライ効果という言葉があります。力学系(一定の規則に従って時間の経過とともに状態が変化するシステム)の状態にわずかな変化でも与えると、わずかな変化が無かった場合とでは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象のことです。チョウがはねを動かすだけで遠くの気象が変化するという意味の気象学の用語を,カオス理論(カオス理論とは、非常に複雑な状況・状態の世界では、未来を高い精度で正確に予測することは不可能ということ)に引用した用語です。

身の回りの些細な出来事でも、巡りめぐって社会全体に影響を及ぼすと考えたほうがいいと思います。少なくとも、自分の行動など社会全体には何の影響も及ぼさないという考え方は、政治や環境など大きな状況に対しての無力感と無責任感を産みます。そういう考え方はバラフライ効果を考えれば、間違いであることがわかると思います。

これを身体の状態に即して考えると、直接的にわかりやすい例としては、足首の捻挫がちゃんと治ってないと、腰痛や膝痛になりやすいなどがあります。若いときは大丈夫でも、60歳ころになってその影響で腰痛や股関節痛が発症する場合があるからです。捻挫によるちょっとしたバランスの崩れが他の関節に悪影響を及ぼすということです。

自己責任だけでは済まない

都会に住んでいると季節感が希薄で、人工的な環境に囲まれているせいか、なんでも人(広い意味での人、他人も含まれます)の思い通り、予定や計算とおりにできて当たり前のように感じることが多いと思いますが、昨年の東日本大震災などの巨大地震と津波を経験した人たちはきっと、人の思い通りにはならないことも多いことを実感していることと思います。

最善を尽くして天命を待つ

「自己責任」ということが流行のように言われてますが、「自己責任」と何でも思い通りになることとは全く別ものだということがわかってない人も多いような気がします。

そうならない(思い通りにならない)のは努力が足りないというのは、つきつめて言えば、やりかた次第で何でも人の(自分の)思いとおりになるという思考だと思うのです。

でも、僕はやはり昔の人も言ったように「結果は神のもの」だと思うのです。目標をもつことも努力も必要ですが、それが叶うかどうかは、人にはわからない。人知を超えたものにゆだねるしかないという気がします。

「最善を尽くして天命を待つ」

ストレスを溜めず、心配や不安感に押しつぶされないためには、人の力(理性)を超えたものに、人生をゆだねることも必要のような気がします。

現実をあるがままに受け入れる

「現実をあるがままに受け入れる」ことは、しっかりと大地に足を着けて生きるためには必要なことだと思います。 そうすることで、世界と自分が一体になれるからです。

かの、ジョン・レノンも言っています。
「夢だけに生きたら、人生はお仕舞いだ」と。
夢想家、理想主義者と言われるような彼でさえ、冷徹な現実感覚の持ち主だったようです。
そうでなくては、あれだけの現実的な成功は、望めなかったということでしょう。

奇跡が起きたことがあるかどうか?

キリストのように、水の上を歩くような奇跡は起こせませんが、通常では在り得ないようなことを起こすことを「奇跡」というのであれば、そのような体験をしたことはあります。

それを具体的に人に話したことはほとんどありません。
一回か二回くらい話したことがありますが、
信じてもらえなかったように感じました。
たぶん、胡散臭がられたのだと思います。

僕の場合は、自分が危機的状況に陥ったときに、
その状況を全身で認識し受け入れた上で、
全身全霊で想いを集中させました。

それが奇跡を起こす秘訣なのかな、と思っています。
状況から逃げたら、奇跡は起きません。

諦めからの出発

あきらめたことさえ忘れていたほど
遠くへ行ってしまったかつての夢。
何があったのか、何をしてきたのかさえ思い出せないほど、
心は荒み、空しかったこともある。
でも、過ぎ去った時間は取り戻せない。
同じ時間を再び生きることは叶わない。

明日が来ることさえ信じられなかった。
毎日が過去の延長のような暮らし。
記憶だけが頭を駆け巡る。
辛かったこと、バカにされたこと、軽蔑されたこと、
無視されたこと、裏切られたこと。

何人もの人々と出会い、何人もの人たちと別れた。
そんな時間を過ごすうちに、
一人でいることに慣れてしまった。
一人、自分の部屋にいるとき、
山で見渡す限り人っ子ひとり居ないとき、
気持ちは穏やかで、心が安らぐ。

後悔しても時間は取り戻せない。
未来を取り戻したい、
希望に生きたいと想い焦がれても、
過去を生きている間は、未来はやって来ない。
気が付くと、今でも俺は過去を生きている。

夢って何だろう?
希望って何だろう?
こうなりたい、こんなことがしたい、
こんなものが欲しい、こんな場所に行きたい。
それが夢なんだろうか?
それらを望むことが希望なんだろうか?

でも、それって
ただ欲望に突き動かされているだけのような気がする。

自分が何者かわからないとき、
俺は心安らかでいられない。
自分がリラックスできる場所がないとき、
俺は居たたまれなく思う。
誰も自分を理解してくれないと感じるとき、
俺は生きているのが空しくなる。

だから、
自分が何者かを知ること。
自分の居場所を見つけること。
自分の理解者で出会うこと。
それが一番大切なことなんだと思う。

すごく遠回りしてきたけれど、
今ようやく大切なことがわかりかけてきた、
そんな気がしている。

どこか欠けているのが人間

完全を求めて、あがいていたあの頃。
不完全な自分に、苛立ち、失望し、絶望すらしていた。

でも、今、
少しは世の中の人間のことがわかるようになり、
気付いたことがある。

完全な人間などいないってこと。
どこを探したっていやしない。

不完全だから人間なんだ。

自分の欠けているところ、
不完全さを気に病むことはない。
それで当たり前なんだから。

ただ、全力を出し尽くしたという実感さえあれば、
満足することはできるはず。
それで十分じゃないか。

途中で投げ出さずに、
自分で決めたことを、やり通したという感じと、
満足感さえ得られれば、
それでいいんだと思う。

やれる所までやれれば、
それで十分じゃないか。
他人と比較することはないさ。

なぜなら、人はそれぞれみんな違うのだから。
完全な人間なんて、
何処を探したって、いないのだから。

その思いが、
挫折したとき立ち上がる力を与えてくれる。
生きる勇気を与えてくれるんだ。

怠け者の言い訳!?

何か一つのことに集中し続けられるのは、努力というより性質や性格のような気がすることがあります。
「何かをしていないと気がすまない」というのは、自己充足感とでも言うようなものが不足しているからと考えることもできると思います。

どちらも、(社会的に評価されるような)何事かを成し遂げるには、必要な気質であることは確かでしょう。
それを自分自身に当てはめて考えると、極度に集中力があるほうではないが、ある程度の集中力はあると思っています。

何かをしていないと、ひと時も落ち着かないというわけではないし、一人でぼーっとリラックスしているのは結構好きです。かといって、何となくダラダラ時間が過ぎていくに任せているのは、人生を無駄にしているような気がします。 だから、僕の気質は、それらの中間に位置するような気がします。

世間的には、人に影響を与えるような何事かを成し、経済的にも金をより多く稼げる人が社会的には評価されます。 逆に、ぼんやりダラダラ生きている人は、他人に迷惑などをかけなくても、批判されたり、最近では負け犬と言われたりもする世の中です。

ちょっと皮肉な言い方をすれば、何事かを成しとげるような人たちは、何事かをせずには居られない、じっとしてただこの世に存在しているだけでは、自己充足(充実)感覚が得られない人たちなのだから、別に偉いとか立派とかいうのとは、本当は違うのかも知れません。

自分自身の本質を評価してくれる人というのは、 「ただこの世に存在してくれているだけでいい」 と言ってくれる人のことだと思います。

でも、大抵は、何なにをしたから偉いとか外見が美しいから好きだとか、優しくしてくれるから一緒にいたいだとか、何かしら自分が得るものや、相手がしたことに対する評価に基づき、相手の存在そのものを評価した気になっているのかも知れません。

生きる上で大切なことは、持って生まれた気質や特質に逆らわずにそれを活かして、自然や周囲と一体化して適応してたんたんと最後まで生き抜くことではないかと思います。

何かをするとかいうことは、生きる目的を自分なりに設定しないと生きてゆけない人たちが作り出した方便で、存在論的に言えば、二次的な問題のような気がしないでもありません。

大切なのは生きてること

生きていることが大切

毎日、職場や学校や家庭で、体力と気力も使い果たしたことはありませんか?

いつも元気で明るくなんて、理想かも知れないけれど、僕にはできない相談です。

そんなとき一言つぶやいてみます。

「いま、ここに、生きているだけでいい」

本当はそんなこと、言ってくれる人はいません、めったには。
同僚、上司はもちろんのこと、親兄弟、親戚、親友、知人でもあまり期待できないかな…

でも、一番、愛とまでは言わないけれど、思いやりと肯定感に満ち溢れている表現は、これだと思います。

「ただ、そこにいてくれるだけでいい」

いまの、日本とは限りませんが、生きる価値って何かを成すことだと思います。ただ生きているだけでは十分でなくて、何か創造的というより、生産的、お金に換算できることをすることに価値が置かれているのは、否定しようもない事実です。

そんな価値観を微塵も疑問に感じずどっぷりと浸かり、しゃにむに働いている姿がそこらじゅうに見えます。満員電車の人たちはみな一様に不機嫌か、雑誌や携帯の画面に見入っています。市街地で子供も含めて、いまどき、無目的にぶらぶらしている人は、渋谷のセンター街やコンビにの前でしゃがんでいる若者以外、あまり見かけることはありません。

藁しべ長者の話に似ていますが、僕が好きな話に「三年寝太郎」というのがあります。寝てばかりいる太郎に、ちゃんと働かないと金持ちになれないと説教するのですが、金持ちになったらどうなる?という太郎の質問に、働く必要がなくなって毎日寝て暮らせる、と答えが返ってきます。すると太郎は、それなら、俺はいま、もうそうしている、と答えるのが落ちです。

なんか怠け者の言い訳、屁理屈のようにも感じますが、でも、これは生きる目的や働く目的についていろいろと考えさせてくれる話です。

なんで働くのか?なんで働かないといけないのか?なんでいま、ここに生きているだけじゃいけないのか?それと、今の生きる価値観というのは、学校でも会社でも家庭でも、将来のために今を犠牲にしても準備し努力するというコンセプトが根底にあるように感じます。でも、これって永遠に(死ぬまで)、実現すべきゴールを先送りするってことだと思いませんか?

「いま、ここで、すぐに実現すること、やりたいことをはじめること」僕が高校生の頃から考えていた生きるコンセプトです。キャッチコピーは、

「今がすべて」

刹那的に聞こえる表現ですが、確かに存在するのは、今、この瞬間だけです。過去も未来も記憶と予想、思考の中に存在する、いわば架空のものだと思います。それを実現するのは、今、この瞬間の思考と行動しかありません。

死ねば、本人にとっては、(少なくとも)物質的なものは全て無に帰します。物質的なものやそれを生産するための産業や経済は、方便、方法、手段に過ぎないことを、いま、この時点で再認識することが必要なのではないでしょうか?

僕は整体師として仕事をしてますが、身体の本質は骨格や筋肉や血管や神経などの物質としての細胞ではなく、それらが織り成して成り立っている機能だと感じています。

身体機能を統合する脳の働きを精神と呼ぶなら、人間としての存在の本質は、肉体に基盤を置いて機能する精神でありその動きとも言える心(感情、情緒)だと思います。

我々は過去と未来の橋渡しをする存在

アフリカ人(アフリカに昔から住んでいる黒人)以外の人類のDNAには、4%前後の割合で2~4万年前に絶滅したとされるネアンデルタール人のものが含まれているそうです。そのことを知ったとき、自分の存在が、はるか昔から連綿と受け継がれてきた命との繋がりを感じました。

自分の遺伝子の中に、もう一つの人類であり過去に絶滅したネアンデルタール人のものが入っていることを知ったとき、さらに遡れば、類人猿や四足の哺乳類、爬虫類、両生類、魚類…とも自分の命が過去の地球上に存在し生きていた生命とも繋がっていることが感じられたのです。

人類学の最新の知見によれば、DNAの観点から観れば、人種は無いと言ってもいいそうです。人種と言えるほどの違いはないそうです。我々人類の外見や言語、文化の差は、住む地域の環境に適応し変化したもので、本質的な違いはないということです。

それを知れば、人種差別や民族、文化によって優劣をつけたり差別することには、本質的に無意味であり、科学的根拠がないのに差別することは、自らの無知と心の貧しさを曝け出している行為と言えます。

善悪の概念は、人が社会生活を送るために作り出したものだと思いますが、最大の悪、罪を定義すれば、地球に何億年も前から連綿と続き、地球環境そのものを作り出す重要な役割の一端を担っている全ての生命と環境を破壊することだと思います。生命と環境を自らの生存の必要性とは無関係に殺すことは最大の悪であり罪です。

その意味において、ひとたび事故が起これば、制御不能になり、汚染された環境の浄化も、地球の永遠ともいえる何十万年、何百万年もの時間に委ねるしかないような、稚拙で危険な技術の一つである原子力、核兵器の開発と利用は、我々の生存の基盤である地球環境に対する最大の悪であり大罪なのです。

さらに罪深いのは戦争、特に近代、現代の重火器と核兵器を用いた国家と民族間の戦争です。戦争は、直接人類とその周辺の生命を殺すだけでなく、最大の環境破壊行為でもあります。自らの命を殺すだけでなく、生存の基盤である環境をも大規模に破壊する戦争は、どう理屈をつけようと、最大の罪であり、人類の愚かさの象徴とも言える悪行だと思います。

人と比べない

運動競技、学力テスト、入学試験、就職試験、偏差値、会社の人事査定などは、他人との比較、優劣を決めるためのものです。

それぞれ個性も能力も資質も違う人間を、ひとつの物差し(価値基準)によって計り、優劣をつけることは、学校や会社などの共同体、組織に属する人々全体の能力を上げるためではないので、全体としての能力向上にはあまり役に立ちません。

人との優劣を競うテストのために勉強したり技術向上のために努力することは、必然的に他人を敵視し蹴落とすことが学校や社会で成功するための必須条件だと思い込まされるということです。

他人と自分を比較することに、本質的な意味はありません。まったく同じ体と心を持った人や、まったく同じ家族関係と社会的状況にいる者はいないからです。

他者の成功事例はそのままでは自分に適用できません。生まれ持ったもの(性格、体質、能力など)が違いますし、生まれ育った環境も違うからです。

自分で考え(応用し)判断し行動することが、やりたいことをやって成就(成功)するために、そして自分自身の人生を生きるためには必要不可欠です。

他人と比べて、競って、一時的に勝利を得たり、優位に立てたとしても、いつ蹴落とされるか、追い越されるか、気が気でないでしょう。そんなことの為に生きていても、心休まることはありません。

自分は世界で一人だけです。替わりはいません。自分の人生を生きることが、人生を楽しい、生き生きする秘訣です。