施術前に瞑想

否定的、悲観的、攻撃的になっていると、クライアント(患者さん)にそれは伝わります。体に触れる手から、全身が発する「気」から、会話から、想念から伝わっていくのです。

だから、施術前は心を平静にしておかなくてはなりません。そのために、ほんの数分ですが、瞑想をします。

まず最初に、施術室の床に正座し、目を閉じて、両掌を合わせて「気」を感じ取ります。

次に、周囲の音に耳を済ませ、意識を拡大していきます。施術室からアパート全体、近所、町内、市内、関東全域、日本全域、アジア、ユーラシア、地球、太陽系、銀河系、宇宙へと。

時間に余裕があるときは、さらに、宇宙の誕生に思いを馳せ、自分が座っているこの場所、この時間へと意識を引き戻します。

大抵は、それで心が穏やかになり、安心してクライアントさんに向かい合うことができます。

瞑想で啓示を得た(かなり大げさですが…)ことは、いくつかありますが、最も心の平安を得た啓示をご紹介します。

「我々のような意識を持ったものが、この宇宙に存在していること自体が、奇跡だということ。掛け値なしに奇跡なのだ。」

宇宙が、この世界全てが、物理法則で作られているとしたら、自分が意識を持って存在していることが当たり前のことだとは到底思えません。

意識と肉体(物質)は分けて考えることはできないと思っています。存在様式と存在するレベルなどが違うだけです。本質は存在様式を決定する法則(ルール、システム、ソフトウエアのようなもの)なのだと思います。

だから、意識を拡大していけば、物質的な存在としての自分はちっぽけでも、宇宙と一体になったと感じることができるのです。

そんな視点から観れば、何を成したかとか、どんな人生を送っただとか、何を所有したとかは、二次的なことです。そんなことは、自分でなくても、必要なら誰かがやるだろうし、やった人物の固有名詞など、世界全体としてはどうでもいいことです。

かといって、「どうせ、誰かがやるから、自分がすることはない。人にやらせておけばいい」ということではありません。

自分が持って生まれた、与えられた、能力と置かれている状況を活かしきることが、生命を持って存在する我々の使命だからです。

ただ、自分の特性と能力を活かす方法や様式は、人それぞれだという意味です。

何かを達成することも必要だし素晴らしいとは思いますが、それ以上に、我々が、意識を持って存在していること自体が素晴らしいのだと思います。

人を呪わば穴二つ

整体を生業としてると、実にいろんな人と出会い、文字通り触れあいます。普段の会話では話さない、話せないようなことでも、体の不調を治す仕事に必要なら、根掘り葉掘りお聞きしたり、お客さんの方からお話されることも少なくありません。

整体師として実感してることですが、先天的な疾患や不具合は別として、心身の不調が慢性化してて回復しない人の特徴の一つは、考え方、生き方が内向きで後ろ向きで否定的なことです。特に悪いのは、呪いの言葉を習慣的に口にすることです。嫌いな相手であっても継続的に危害を願ってると、危害が及ぶのは自身であるということです。

呪詛の女

注意しなくてはいけないのは、呪詛の言葉が癖になってる人の中で、それを潜在的にせよ自覚してる人は、呪う相手と接するときに、気持ちとは裏腹に表面を取り繕って友好的に見せることです。過剰な謙りや丁寧な言葉使いは、敵対心や憎しみを隠すためです。

敵愾心を内に秘めた相手と接していて、表面的な友好的態度に騙されて無警戒でいると、知らず知らずのうちに、嫌な気持ちが積もってきて、心身の健康が害されます。そいう相手とは関係を絶つか、できない場合は距離を保つことと、相手の本心を自覚することで防御できます。

日本社会のような同調圧が高く、同じであることに価値を置く社会では、嫌いな相手に対してでも、表面的には友好的に振舞うことが多いです。でも、それが呪詛の言葉を(相手が居ないときに、相手に気付かれないように)習慣的に吐くことに繋がってきます。

上位の相手に嫌悪感を露にすることは、どんな社会でも危険ですが、個人的な好悪の感情でなく、仕事や活動に関する建設的な意見や批判なら、反感を買わず受け入れられる表現を使って伝える努力をしましょう。

まともに意見が言えないから、不当なことをされても反論も反撃もしないから、影で呪詛の言葉を吐くことになるのです。それが効果を発揮して相手を害することもありますが、確実に危害が及ぶのは自身の心と体です。呪詛が一般的な人間関係の社会は、必ず荒廃し崩壊するでしょう。

人は自分の思い通りにはならない。自分の感情と欲望と立場に基づき、自分で行動を決めるものです。自分と感覚や感情や考え方が違うのは当たり前です。自分と違うからといって、いちいち嫌悪感や反感を持ち、思い通りにならないと相手の不幸を願い呪うような精神状態では、自分が幸せになることはないでしょう。

人の心の状態は、必ず体に影響します。体の不具合と歪みを整える整体師という仕事ですが、心の状態にまで気を配り前向きな方向に誘導できなければ、治せない不調があることを実感してます。

願望実現法

願いは叶わぬものと思ってませんか?

もしそうだとすれば、その願いに無理があるか、叶わないという思い込み自体がじゃまをしているかも知れません。あなたの願いが、ご自分の無意識の中からの自然な欲求から出たものなら、願いが実現するほうが自然なのです。

心身に悩みを抱えていたら、「こういう風になりたい」と具体的に願望をイメージしてみましょう!楽しかったときのことをできるだけ具体的に生き生きと、そのときの感情までも思い浮かべるのです。

そのとき観たもの、聴こえてた音、空気の匂い、かわした会話、食べたものの味、周囲の風景などをできるだけ具体的にリアルに思い出すと、どんよりと落ち込んでたり、塞ぎこんでたり、消極的になってたりする脳の神経回路が、楽しかった頃生き生きと回転してた頃の脳の状態に戻っていくのです。

そのような状態になってはじめて、本当の願い、こうなりたいという本心からの願望がわかってくるのです。

私たちの潜在意識は、心身をフル活動させて、本音からの願望を達成しようとします。逆に言えば、願望が表面的に頭だけで考えたものであったり、人から言われたものであったり、無謀なものであったりして潜在意識から外れたものなら、その願望を抱くことで心身の調子が狂ってしまったりすることもありえます。

心身ともに無理のない、自分の本音からの願望に的をしぼった生き方をしていれば、願望は自ずと実現していくはずです。

ということは、願望実現の秘訣は、「自分の本当の願望」を実感することと言えるでしょう。

脳内現象としての世界

心がイメージを作り出し、それを頭脳で解釈しているのが人間の世界です。我々が知覚しているのは、物理学が対象とする物理的なエネルギーによる刺激ではなく、意味体系の世界なのです。物理的刺激(エネルギー)は、意味体系を紡ぎだすための触媒、情報に過ぎません。

例えば、DVDの形や組成材料をどんなに緻密に分析しても、その用途も存在意味もわかりません。それはDVDプレーヤーでそこに記録されているデジタル信号を読み込み、モニターとスピーカーで画像と音声に変換し、さらに人の頭脳でその意味を解釈して始めて、何なのかがわかるのですから。

今の水準の、物理学を代表とする科学や化学では、世界の物理的側面のごく一部しか解明できないでしょう。世界の意味、宇宙の成り立ちの本当のことは、今の科学の方法論では解明しようがないと思います。それは物体としてのDVDの素材を分析するのと基本的には同じ方法論だからだです。

人体もある意味で、DVD、あるいは、電波を受信し人の脳が理解できる形に変換するラジオやテレビと同じなのかも知れないと思います。外界に溢れているエネルギーのうち、人にとって意味のあるものだけを受信し、解釈し、イメージ化して意味づけし、それに基づいて行動を起こす。これが生物がしている活動なのですから。いわば、私たちは、脳内現象として、世界を体験しているのです。

だから、客観的な外界というのは、存在しえないのです。生物種によって異なる、感覚器官と知覚神経と脳によって解釈する個別の世界は存在します。物理的外界は、我々を含めた全てを包含し、互いに共鳴する限りなく巨大なエネルギー場と呼ぶべきものだと思います。

我々は、関心のあることか生存に関わることしか認識できません。それ以外の情報は脳裏に入ってこないのです。我々にとっての現実とは、関心のあるごく限られた情報を素に、自己都合による理屈と判断と解釈によって作り上げた世界に過ぎません。

例えば、空間の変化は、時間の変化として感じられますが、変性意識状態では、空間の変化と時間の変化は連動しなくなるのです。時間と方向感覚は消失します。今、この瞬間が世界の全てになのです。方向感覚は、自分が進む方向が前方になりますが、左右、後方の感覚は消失します。

このように、三次元を構成する重要な要素である、時空間の感覚さえ、意識状態によって、大きく変化したり消失することもあるのです。楽しいことをしてるときは、時間はあっという間に過ぎ去るか、時間経過の感覚は希薄です。辛いことをしてるときは、時計の針は遅遅として進まないという経験は、誰にもあるとおもいます。

このようなことを考えると、世界を作るのは私たち自身なのです。客観的世界など存在しません。私たち一人一人の参加、関わり無しには、世界は存在しえないことは、おぼえておきたいものです。

妄想の海に漂っている私たち

我々は、いわゆる物理的、客観的と言われる現実の中では、ほとんど生きていないようです。

頭の中では常に観念や妄想が渦巻き、かろうじて1割程度の時間だけが、現実に起きる出来事をリアルタイムで認識し対処しているそうです。

20代の頃の最大の関心事は、この世界がどうなっているのか知り尽くしたいということでした。

現象学という学問分野があることを知り、専門書を購入しましたが、あまりの難しさにろくに読むことはありませんでした。しかし、そのエッセンスは、現象学を引用したり解説した比較的一般向けの著書で知ることができました。

それによると、我々は脳を使って作り上げた世界観と呼ぶべき、いわば、バーチャル・リアリティに合った現象だけを知覚・認識しているということと、その世界観、言い換えればバーチャル・リアリティを維持・強化するために、常に観念的おしゃべりとでも呼ぶべき状態を脳を使って作り出しているのだそうです。

だから、人類が持っている知覚機能に限定されるとはいえ、現実に起こる出来事を知覚機能が認識するままに感じていることは、まれなことと言えるようです。

いわば、自らが作り出した妄想の海に漂っている状態が、今の人類の在り様と言えるのです。

成功するためのノウハウを一般向けに書いた本などで、よく言われることで「自分の考えたことが現実になる」や「引き寄せの法則」という基本的考え方がありますが、現象学的に言えば、自分の考えたことに矛盾しない部分(出来事)だけを選び出し意識を集中させて、世界を創造している、ともいえるのです。

インドを旅してた頃は、現地で出会うインドかぶれの旅行者から度々「悟り」について話題にされたことがありますが、自分なりに悟りとは?と考えると、「妄想の海から現実の陸に上がり、目の前のことだけに意識を集中すること」だと今は考えています。

これは動物の意識とほぼ同じだと思いますが、そう考えると、人類が文明を創造できたのは、妄想することができたから、とも言えそうです。

それが幸福かどうかは、妄想しない動物に聞いてみないことには、わからないでしょうけど。

七夕に観る願望成就法

高畑勲監督の「かぐや姫の物語」といアニメ映画が、11月23(土)に公開されます。

僕は、スタジオジブリ作品では、高畑監督のほうが宮崎監督の作品より好きなものが多いです。もちろん宮崎監督の作品も好きですが。

季節外れですが、かぐや姫といえば七夕です。七夕と言えば、願い事を叶えるための行事です。

旧暦の七夕は8月の上旬になります。
梅雨が明け、晴れの日が多くなる時期であり、
旧暦だと必ず上弦の月になり地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくいので、天の川がよく見えます。七夕は旧暦でやるほうがいい感じですね。

短冊に願いを書き、笹に括り付けて川に流す。

これだけのことですが、これは願望成就の方法として考えてみると、理に叶っているようです。

まず、短冊(紙)に書くことで、願望をはっきりさせ、確認します。

星座(宇宙)に関係する行事なので、大自然の力と神秘を感じます。

笹に周囲の人の願いと一緒に、自分のも括り付けることで、自分の願望が個人だけのものではなく、共同体(社会)の願いと一緒になり、定着することにつながります。

笹は社会や自然(世界)の象徴と観ることもできるでしょう。

最後に笹(共同体の人々の願いが集まったもの)を川に流します。

このことによって、願望(欲望)から、いったん離れ、忘れます。

頭の中(顕在意識)が願望(欲)によって支配されることを防ぐ役割と、いったん忘れる(離れる)ことで、願望を深層意識に落とし込み定着させる効果があります。

七夕が終わったら、日常に戻るので、翌日からは淡々と日々やるべきことをやっていくだけですが、願望を確認し川に流すことで成就の方向へ向かわせたので、日々の暮らしもその方向に影響されていくわけです。

願望を非日常の空間で確認する。日常では、やるべきことを実行していく。

この組み合わせが、願望実現の方法論だと思います。

欲しいものを見つけるには

何年か前のことですが、ホームセンターに紙やすり等を買いに行ったときのことをお話します。

ホームセンターといっても、行ったのは、ロジャースという名のディスカウントスーパーで、食品スーパーの上のフロアに家電や家具や日曜大工に使う基本的なものが置いていある程度の規模の店でした。なので、たぶん無いだろうなと思っていました。

なんで紙やすりなど買う必要があったかというと、身長65センチの骨格模型を、患者さんへの説明用と遠隔施術用の依り代として使うためにネット通販で買ったのです。でも、中国製の安いものなので、鋳型から出したときのバリがあって、脊椎の棘突起を触ると痛いので、紙やすりでけずろうと思ったからです。

「依り代」といっても何のことかわからないと思いますが、アニメ映画の「千と千尋の神隠し」を観た人なら覚えていると思いますが、竜となったハクを追って紙の人形が飛び込んでくるシーンがあるのですが、その紙が依り代です。神霊が降臨する際の媒体となるものといったほうがわかりやすいでしょうか。つまり、遠方のクライアントさんを施術するときに、クライアントさんの身体の替わりに使う媒体を「依り代」と呼んでいるわけです。

といっても、私が霊媒師だというわけではありません(笑)。アスリート(運動選手)などがイメージトレーニングをするだけで、実際に体を使ってトレーニングしたと同様の効果が出るというのと聞いたことがある人も少なくないと思いますが、それの施術バージョンと思っていただければ、当らずと言えども遠からずといったところでしょうか。

話を紙やすり探しに戻しますと、かなり歩き廻ったのですが、見つからないので「やっぱり無かったんだ」と思って食品売り場の方へ行こうとしたときに、ふとあることを思い出したのです。

「無いと思いながら探すと、あるはずが無いという自分の思い込みを実証するような選択というか探し方をしてしまうから、実際にも見つからないことが多い。有るはずと思って探せば、目的のものが「有る」という状態を発見しようとするから(有るという状態を自分が選択するから)、実際に見つけることが多い」ということです。「無い」という思い込みによって「有る」ことが盲点となるわけです。

そこで「紙やすりは有る」と思い込んで再度売り場を探したら有りました!べつにしらみつぶしに隅から隅まで探したわけではありません。「有る有る」と思いながら、紙やすりを思い浮かべながら歩いていたら、何となく視線が行ったところに有ったという感じでした。

これはある種の自己暗示なのかも知れませんが、欲しいものがあるのに「有るはずが無い」と思っていたり「自分には手に入るわけがない」との思いが深層の意識の中にあると、思い続けていようが手に入ることはないように思います。いわば「欲しいものは自分には手に入らない」ということが、思考と行動の前提のようになっているから、手に入らないという暗示をかけているのと同じになってしまうのです。

「何かしなくては」という言葉で思い込むと、何かをやる必要があるのに、やれてない自己像(セルフイメージ)を強化してしまうように思います。

ただ単純に「自分は何かをする」と言った方が実現性ははるかに高いように思います。ちなみに、「何々をやりたい」「したいと思います」も、「したいのだけれど、できない自分」というセルフイメージを強化するように思います。

何かを具体的にするということは、自ら行動し現実を変化させることでもあります。「したいと思っている(だけど、いまはできない、やりたくない)」というのは、現状を維持したい、変化したくないことを正当化していることでもあります。

何か新しいことをやりたいのなら、現状が変わることを覚悟してからでないと、なかなか一歩が踏み出せないように思いますし、今ある「現実」を自分が変えることができる、と信じられることが前提になると思います。

世界は自分が思ったとおりになる、というほど能天気ではありませんが、思考と想像の方向性は、望む方向へ向けておかなくては、実現しっこないというのは確かだと思います(失敗例も含めて、そう思います)。

現実は実に複雑で、家族、社会と範囲を広げていくと、いろんな思考の波が錯綜するせいか、なかなか思っても別の方に行くこともしばしばですが、中心となる自分がぶれたり、逆方向へ向いてたりしたら、結局現状維持か周囲に流されることになるんでしょうね。

輪廻転生について

タレント的な霊能者がホストを勤める番組が人気を集めていた時期がありました。あれから何年も経ちましたが、その影響のためか、輪廻転生(生まれ変わり)を信じる人が結構いるような気がします。

肉体が滅んでも魂は生前の姿のままで存在し続けるという信仰(価値観)も、輪廻転生の一種のような気がします。

過去生を信じる、信じないは、個人の自由です。それによって、人格や価値観の良し悪しまで判断するのは、的外れだと思います。

チベットのダライラマの地位は輪廻転生に基づいていることは、よく知られています。

私自身は、輪廻転生に関心がありました。ドキュメンタリー作家の書いた、自分自身がルネサンス時代のイタリア人(確か彫刻家)の生まれ変わりだと、ある霊能者に言われたことをきっかけにして、その人物が実在したのか検証の旅に出るという『前世への冒険』(森下典子著)という作品を読んだりしました。

それ以外にも、過去生の記憶を持っているという子供のインタビューをまとめた本を読んだこともあります。

でも、今の私には、過去生などというものは存在しないという立場です。

自分が自分であるという認識(意識)は、体験の蓄積からくる記憶に基づいているはずです。前世の影響とか、過去の特定の人格の持ち主の生まれ変われを信じるのは、信仰(宗教)の一種という感じがします。とはいえ、物質と精神のエネルギーは不滅だと信じています。

前世の考え方が腑に落ちない一番の理由は、自分に過去生の記憶などないからですが、それと同時に整合性がないと感じる理由は、現在60億以上いる人類は、たった1万年前には、500万人から多くても1千万人と推計されています。

現代人のルーツは東アフリカにあり、約5万年前前後に世界各地へ移住しはじめたことが、ミトコンドリアDNAの解析でわかっています。移住の動機は、気候変動などの影響か、食物が少なくなったからといわれています。

現在に人類は、その時期に絶滅しかけたそうです。人口としては、現在の全ての人類の祖先と言われている集団に限れば、数百人規模にまで減ったとされています。

その事実を踏まえて考えてみると、輪廻転生に必要な魂の数?!は、過去の遡れば遡るほど数が合わなくなるということになります。

中世では何何だったとか、聞きますが、その時代の人口は、いまの10分の一以下です。人類全体のルーツも、700万年前ということになっています。

1千万年前(地球の歴史に比べたら、つい最近のことです)には、人類は影も形も無かったのです。

この事実を踏まえて考えると、DNAの情報は命が続く限り 受け継がれていきますが(これは証明された事実です)、同一の人格を持った存在としての生まれ変わるというのは、あり得ないと思っています。

生命エネルギー体として存在し続けることはあっても、人格を持った存在としての前世など疑問を感じる方が自然だと思います。

たとえ過去の記憶があったとしても、それは現在の自分とは 別の人格であり、別の人物なので、アイデンティティが同じで 肉体は別、当然経験したことも別、時間的にも隔たった時代に生きた人物が同一人物だというのは、
無理があると感じます。

それと、人と人、人と動物植物たちも、我々が考えているほど、各自が独立した存在ではないし、人と人同士なら意識レベルでも 同調していることが多いです。

そう考えると、魂というものがあるとして、それが社会的な人格のように、完全に独立した個人に属するものと考えるのは、無理があるような気がします。

我々の意識はつながっている側面が多いからです。ましてや、肉体を離れた魂が、他の意識や記憶と独立して、
現世のままのカタチで存在し続け、さらに 別に肉体に宿るなどという話は、今の私には信じがたいことです。

過去の記憶がある人へのインタビュー自体は本当だと思います。しかし、その記憶イコール輪廻転生、過去生の証明にはならないと思います。

私に考え、世界観では、精神的なカタチをとったエネルギーは、(人の精神なり心なり魂と読んでもいいと思いますが、)肉体という個性を持った存在が滅んだ後は、
人類、もっと言えば、宇宙全体の意識の中に戻って行くのだと思います。

それぞれの人々が経験し感じた記憶は、肉体が滅んでも消えることはない。

ただ、それは宇宙の全体意識のようなところにストックされている。

過去生の記憶がある人は、ある特定の過去の人物の記憶と同調する能力がある(アクセスできる)のだと思います。

人は思いこみで世界を作る

傷は消毒しないほうが早く治ります。傷は乾燥させると治りが遅くなるのです。消毒薬が細菌より人体の細胞の方にダメージを与えるのです(殺す)。

これは実際に試してみれば正しいとわかります。にも関わらず、いまだに病院でも傷を消毒し続けている所が多いようです。掌など消毒すれば、かえって有害な雑菌が繁殖します。適度に体内に住み着いて共存している細菌がいるほうが安全なのです。

傷の消毒以外にも、世の中の常識として行なわれていることで、科学的根拠が無いものや、間違っているものは意外に多いです。有害だと分かっていてやっているならまだしも、有害、無意味であることすら気づかずに行なっていることは多々あると思います。科学で解明された事の裏には、膨大な解明されてない事が存在しているのです。

抗癌剤でガンが治るという思い込みも、統計的データと反する常識の類です。医療で救われている人の数より、医療ミスや事故、投薬、不要どころか有害な手術などで「殺されている」人の数の方が多いという人もいます。

人の社会は、真実で動いているわけではなく、思い込みで動かされているようです。あるいは真実と思い込んでいるものによって動いているというか…。

我々現代人は、自分で思っているほど賢明でも聡明でも科学的でもないようです。神や神話、迷信の類を信じていた中世の時代の人々と、本質的には何ら変わりはないような気がします。程度の差なのです。

現代でも自分の周囲にも、霊に取り付かれるとか、死ねば天国に行って、また生まれ変わるとか普通に信じている人が少なからずいます。その真偽のほどは自分にはわかりませんが、死ぬ間際、そして死んでから(死後に意識があればですが、今の死の定義ではありえません)の楽しみの一つが、霊にまつわることです。それが嘘か本当かわかるからです(意識があればですが)。

施術で交霊!?

数年前に私が施術させていただいた、ある患者さんの体験談です。

施術中に死んだ祖父が出てきたそうです。
祖父が病気になったのに、自分に余裕がなく、
あまり看病できなかったことを悔やんでいたそうです。
それについて謝ったら、祖父はまったく気にしてないと言ってくれたので、
心のつかえが取れたそうです。

また、別の施術のときには、
自分が整体院とは別の場所、たぶん自宅にいて、
押入れから部屋にいる自分を覗いていたそうです。
それはとてもリアルなイメージで、夢とは違う感覚だったそうです。

その方はとても感受性が鋭く、繊細で傷つきやすい印象でしたが、
おそらく霊感のようなものを持っていたのでしょう。

私自身は、まったくそんなことには気づきませんでした。