ポジティブ思考だけでは

ポジティブシンキングが悪いわけではないですが、まず現状認識をすることが問題解決の出発点であることは確かです。

その上で、それをどうしたら問題解決できるのか考え、それが決まったら その肯定的なイメージ(解決法や目的達成した状況)に集中することが大切なんだと思います。

その前提がない、「世の中全てうまくいってる」式の思考方法では、おそらく、切羽詰った本当に危機的な状況に置かれたら、ペシャンコにされると思っています。だから、ある程度、余裕があり、問題があっても、誰にでも起こる程度の人生状況の人が そう言っているとしか、僕には思えません。

海外でいろんな状況の人々を見てくると、脳天気なポジティブシンキングなどではそれらの人々は救われないことを実感します。 極論かも知れませんが、アフリカ辺りの内戦で難民になって、命からがら隣国へ脱出した人々に対しては、現状認識を欠いた、ポジティブシンキングなどは、何の役にも立たないでしょう。

自分の身の回りでも、相当厳しい状況の人の話は耳にすることがあるので、思考(だけすれば)それが現実化するなどという、底の浅い理解では厳しい状況に立ち向かうことはできないとつくづく思います。

人それぞれ、個性、肉体的特質、心理状況、生い立ち、生まれた社会状況、時代背景、経済状況などが違うわけだから、それを無視して、普遍的に単純に自分や世界を変える方法など有りえないというのが僕の実感です。

営業優先か、患者優先か?

昨年の夏に参加した、ある高名な治療家のセミナーで言われたことを思い出しましたので、 参考までに書いておきます。

「金持ち相手に(料金を高く設定することと、ちょっとした体の調整を短時間で確実にできるようにすることらしい)すれば、不況なんか関係ない」

一理あると思いますが、僕はこれを聞き、その先生は治療家である以上に経営者だと思いました。

自分の治療技術を広く一般の人々に役立てることより、自分の金銭的、時間的利益を優先するということですから。

もちろん僕も自分を消耗させてまで、私生活を犠牲にしてまで人のために施術するつもりはありませんので、その点はその先生と同様ですが、少なくとも、今の医療システムと治療法に疑問と危険を感じているので、それを微力ながらも何とかしたいという気持ちはあります。

それは、商売上はマイナスに働くでしょうけど、金銭的利益第一で考えたら 整体師を仕事として選んではいなかったと思います。 その意味では、志が高いかも知れないと思ったりもします(笑)

神の手と言われるために

あるカリスマ整体師のセミナーを受講して聞いたことです。

上手だと評判の施術家、治療家は、治せる人しか施術しないそうです。(なるほど、それなら、あそこで治らなかったとは言われないでしょうね)

だから重症の患者はもっともらしい言い訳を付けて、断るそうです。 (その方が安全ですし)

鎮痛剤など、施術効果の浸透をじゃまする薬などを飲んでる人も、断るそうです。 (たしかに、薬服用者は、改善が遅いようです)

施術で改善したのに、全く改善してないなどと言いがかりをつける患者は、施術前の状態に戻して帰してしまうそうです。

このように、神の手と言われるようになるためには、いろいろと作戦が必要のようです(笑)

確かに、治す見通しが立たないのに、営業上の理由でどんな状態の人でも受け入れるのは長期的に見れば、マイナスに働くと思います。

実際、慢性化した腰痛で来院した患者で、後で言われたのですが、 当院の初回の施術であまり改善は感じられないし痛むので、整形外科で筋弛緩剤を注射してもらい鎮痛剤まで飲んだ状態で来られたことがありますが、やはり改善はあまり感じられないといって以後来なくなったことがありますが、

今考えれば、そんなケースで1、2回ではっきりと改善させたら、神の手と言われてもおかしくないと思います(笑)

体と神経が鈍くなってるから、手技の刺激などが浸透するはずがないし、痛まない状態でやると、本来は動かせない範囲にまで動かしてしまうので、危険ですね。実際、施術後に痛みが増したと言われたこともあるので、やはり鎮痛剤服用の場合は、最初に注意が必要だと思います。

改善したと言っても、たまたまだとか、他にもマッサージや整形外科の理学療法を受けてたりすると、それがよかったんだと僕に向かって、今受けた施術と改善を否定するようなことを言われたことさえありますからね。

ある程度、施術を受ける際の条件を出しておかないと真剣にやった割りには、相手は信頼しておらず、その割に過剰な期待を持っていることがあるので、やってられないという気分になり落ち込むことはありますね。

ようするに、整形外科や接骨院、マッサージと比べてさえ、整体などは信用度が低いということです、一般的には。

自分の守備範囲を広げすぎると、お互いに納得できないケースが増えるでしょうし、狭すぎても、自己都合優先のようで、社会性に欠けると思います。そのバランスが大切なんでしょうね。

改善は可能になったが

整体業を始めて間もない頃は、体調不良、痛みを抱えたクライアントさんの症状を改善できるか?解消できるか?不安が常に付きまとっていました。

今は全く改善しないというケースはまれです。施術で全く改善しなかった場合は、返金保証も付けているくらいですから。

でも、今はどの程度まで改善してもらえるか?を考えるようになりました。完全に回復すればいいわけですが、生活習慣に原因がある場合、クライアントさんご自身の精神面に問題がある場合には、それを放置して完全に回復することは有りえません。

生活指導はしますが、それをそのまま聞き入れ実行する人は多くはありません。

程度はともかく改善させるだけなら、それほど難しくないと感じている反面、少しでも症状が残っていたり、姿勢の改善が今ひとつのケースなどは、自分の施術に満足できません。

クライアントさんご自身が満足してればそれはそれでいいのですが、それに甘えてては施術に進歩がないような気がします。

完璧はないにせよ、自分も納得しクライアントさんも納得できる施術目標とは何かを考える時期にさしかかっているようです。

施術には信頼関係が大切

私の施術を疑っている人や現代医学の治療方法が最高だと思っている人の不調を継続的に改善することは、難しいです。

効果が出ても偶然だと思うか、気のせいだとか、一時的だと最初から思うからです。そのような信念や強い思い込みがあると、体はそれに応じた反応をします。すると継続的回復は困難になるのです。

施術を薬のように思っている人も継続的な改善は難しいです。首の痛みだけ取ってもらえばいいとか部分的にそこだけ短期間に楽にしてもらいたいだけで、個人的なことや生活面やましてや精神面にまで口出しして欲しくないという態度の人も同様です。

ましてや、私の体や医療に対する価値観に反対、反発する人は、その反発自体が施術効果を打ち消すことがあるので、やはり施術は難しいです。

100%は無理ですが、施術と健康に関する価値観に共通部分があり、それが基盤となってある程度の信頼関係が築けないと、施術で継続的に改善、回復するのは難しいです。

精神面で問題がありそうで、難しい症状の人ほど、医療の限界を身に染みていながら、会話や感覚器官を使った私の身体状況判断を疑ってかかるという矛盾を抱えているような気がします。医療機関では改善すらしないのに、(あやしい?)民間療法の私の施術や判断より、医療機関の検査や判断のほうを信頼しているのです。

これでは、どんなに精魂を傾けて、思いやりを持って施術しても、受け入れられることも良い結果につながることはありません。

私が難しい状態の人への対応力が乏しいせいもあるでしょうけど…

身体均整法を施術に

今、身体均整法を施術に取り入れています。

50年以上の歴史がある整体療法の草分け的手法で、骨格、筋肉の調整だけでなく、内蔵機能、神経の調整なども可能な、とても適用範囲の広い手技療法です。

施術の流れとしては、

(1)骨格の中心であり脊椎を支えている土台でもある仙腸関節の矯正を最初に行います。

(2)次に、体型、体質、症状、体の歪みなどを診て、最適な方法で脊椎の調整を行います。

(3)2番までの施術でも、姿勢、症状ともにかなり改善することがありますが、それに加えて症状が出ている部分に狙いを定めた、部分的な調整を行います。

(4)最後にどの程度改善したか確認し、次回以降の施術が必要かどうか判断して、必要な場合はご希望に応じて予約をしていただき、施術終了となります。

他の整体、接骨院、整形外科など病院での治療で改善しなかった、治療をしてもらえなかった方でも、一度試してみてください。

施術の商品価値についての母の意見

先日帰省したときに、母を施術しました。

何度か施術をしていますが、先日は、息子の施術についての正直な評価を自分から伝えてきました。

母いわく…

「とてもやんわりした整体術で体をゆらしているだけのようで、受けていると眠くなるね。
年末に腰が痛んだときは、整体で楽になったけど、
どこも悪くないときは、整体後でもあまり体調が変わったと感じないよ。
でも、しばらく経つと、いつもより疲れにくく、体が動いていることに気づくんだよ。
でも、これで何千円か払うと思うと、このような整体術では何か物足りないような、
本当に効果があるのかと思わないでもないね。
このやりかただと体を壊す心配がまったくないのはいいと思うけど」

ということでした。

実際のクライアントさんの中にも、正直に同様のことを言った人が何人かいますし、
次回の予約をしなかった人やキャンセルしてきた人の中にも、
同様の感想を持っている人はいるに違いありません。

効果が出れば人は来るというほど単純ではないようです。
クライアントさんの思い込みや期待と施術方法が大きく外れると、
楽になってもリピーターにはなってくれないことがあります。

この辺も仕事として整体をする上での難しさだと、母に指摘されたような気がしました。

民間療法は、まず効果ありき

民間療法は、効果が出てナンボの世界だと思っている。日本の医療は7割とはいえ保険適用されるから、治療効果が無くても、医者の治療を受けているという安心感のためだけでも通院する患者がいる。

治療(施術)効果がはっきりと出ていても(施術後に症状が軽減したり解消すれば、施術効果があったと考えて差し支えないはず)、それを医学(科学)的に説明できないと、インチキだとか偶然だとか言われ胡散臭く思う人が一定数はいる。しかし、現代医学で解明できていることは、ごく一部だろう。

とはいっても、施術効果が出にくい人はいる。背骨も骨盤も弾力が乏しく、体全体が硬い人は、回復力が弱い。そういう人は体の感覚が鈍っていて、風邪を引かないことが多い。風邪すら引けない体は、体の調整ができてないから、ある日突然大きな病気に罹ったりすることが多いようだ。

風邪を上手に引き経過し回復することで、体が調整される(ゆるむ)のだが、風邪薬や抗生剤などを飲むと、かえってすっきとと回復せず、緩和してはいるが風邪の諸症状がダラダラと続くことが多く、体もきちんとゆるまないようだ。風邪を上手に引けば(経過すれば)、逆に健康回復できると思ったほうがいい。

人がいるから自分でいられる、生きられる

人は自分だけのために、この世に生まれてきて存在しているわけではないと思ってます。

人のために何かをすることで、この世に存在できてるんだと思います。

自分が今、ここに居る意味は、他者が与えてくれるんだという思います。

母は子供がいるから、母親として存在している、生きることができる。

子供は父や母の存在があるから、あったから、子供でいられる。

教師は生徒がいるから、教師でいられる。

生徒は教えてくれる教師がいるから、生徒でいられる。

友は友がいるから、お互いに友達でいられる。

料理人は食べてくれるお客がいるから、料理人でいられる。

雑貨屋の店員は、お客が来るから店員でいられる。

お客は、それぞれのサービスを提供する店があって、店員などサービスを提供してくれる人がいるから、お客でいられる。

そしてもちろん、整体師はクライアント(患者)さんがいるから、整体師として存在できる。

我々は一人だけでは存在できない、生きていられません。全てのことは、他者がいて成り立っているのです。

だから、自分だけのために生きる、自分の楽しみや快感のためにだけ生きる、自分だけ気持ちよければいいという考え方は、存在の根本原理に反していると思います。

若いうちは、自分のことと、せいぜい親兄弟、恋人、ごく親しい友だちのことしか考えられない人が多いと思います。少なくとも僕はそうでした。

でも、自分が今、ここに、何らかの仕事や役割を持って存在しているということは、全てそれらを必要とする人がいて、それらの人たちからも大なり小なり必要とされているということでもあります。

自分のこの世に存在している意味を考えることができるようになると、生き方がしっかりしてくると思います。大地に根を張っている感じ、この世の物事とつながりを感じることができる、そんな感覚が生まれてきます。

この関係は、人と人だけだけでなく、人と動物、人と植物、人と物、人と世界の構成要素全てに当てはまります。

自分だけの利益を求めること、追求することは、このように複雑にからみあって相互依存しながら存在している「世界」という現象を、蝕む、傷つける、破壊する行為だと思います。

残念ながら、今の世界、人が作り出したいわゆる進んだ文化、文明は、世界全体から観ると、関係性のネットワークを傷つけ歪めているように思えてなりません。

僕がやっている整体の施術も、体を構成している数十兆個の細胞同士の関係を良くしスムーズにし、相互のバランスをとり全身のバランスを整えることです。整体=体を整えることです。

誰か一人だけ、一つの種類の集団だけが利益を得て無限に勢力を拡大している様は、体内細胞の反乱分子である癌細胞とそっくりです。人類が地球や宇宙の癌細胞にならないことを祈っています。

ではなぜ人は生きる意味を求めるのか?無意味に生きることに耐えられないのか?意味が感じられない人生を空しく感じるのか?

それは、世界に意味づけし存在意義を見出すことそのものが、世界を存在させているからだと思います。

ただ物質として存在している世界、意味も無く動いている世界は、少なくとも人間や精神活動をしている生物にとっては、存在してないのと同じだからです。

たぶん、世界に存在の意味を与えているのは、生命だからでしょう。

この世に存在する意味を失ったとき、我々は消えていくのです。

勝つことの空しさと残酷さ

今は以前ほど聞かれなくなりましたが、一時「勝ち組」「負け組」という人の分類が流行ったことがあります。

僕はこの仕分けの仕方が嫌いです。自分が明らかに「負け組」だからかも知れません(少なくとも世間一般の常識的価値観では)。

それ以上にこのように人を仕分けることは、恐ろしいことだと思います。
なぜなら、勝ちに拘った生き方は、共栄共存、持ちつ持たれつという考え方とは対極にあり、自然界の摂理にも反するからです。

何が何でも勝とうとすると、相手を徹底的に叩きのめししてしまいます。ときに相手を再起不能にします。経済戦争をしていると言っていいほど今の社会は、過酷で激烈な競争社会になっていますが、実際に叩きのめされ再起不能にされた人々や会社は多々ありますし、自殺に追い込まれた人々もいくらでもいるような状況です。

僕の郷里でも、「あそこの社長は、借金が返せなくなり、生命保険を自分にかけて自殺して払った」などという会話が聞こえてくるありさまです。サラリーマンでも数千万円の住宅ローンを組む際には、銀行から生命保険に加入するのを融資の条件として出されることが一般的だそうです。

よく野生動物の世界は弱肉強食で、弱いものは負け淘汰され、強いものだけが勝ち、生き残るようなことが言われていますが、これは事実ではありません。

肉食動物は草食動物と戦っているわけではなく、単に食事をするために狩とっているだけです。自分が食べきれるだけ狩をするだけです。雌を得るために雄たちは戦いますが、相手を殺すまで戦うことはあまりありません。優劣がつけばそれで大抵の戦いは終わります。

野生動物たちは、生き残るために負けないようにしますが、相手や獲物(食料)を叩きのめし再起不能にするために戦っているわけではありません。必要以上に獲物を狩れば、やがてその結果(報い)は、食料不足となって自らに返ってきます。

その意味では、何が何でも勝とうとする姿勢で生きることは、長期的に観れば、社会全体を衰退させることになると思いますし、少なくとも社会が殺伐となることは確かです。

自分が必要な分(利益)を取ったら、後は競争相手に譲る、他の人のために残しておく。勝とうとするのではなく、負けないように生きる。

我々人類がこの先何千年、何万年、何億年と生き残りたいのなら、他を圧倒して勝つような生き方ではなく、負けないように生きなければならないでしょう。

時代遅れと大量絶滅の代名詞のように言われることがある「恐竜」ですが、彼らは1~2億年の間繁栄しました。現在の鳥類などは、その子孫と言われています。

我々人類は、猿人の頃から数えても、わずか5~600百万年しか生きてないのです。現代人(ホモサピエンス)になってからだとたった20万年程度しか経ってないのです。

あくまで「勝ち」に拘るなら、人類はこの先1000年と持たないかも知れません。