対症療法から根本療法へ

今の社会の問題解決の方法論は、対症療法だと思っています。

例えば…

飲酒運転事故が問題になれば、罰則を強化する。

いじめが問題になれば、いじめはいけないと(表面的に)言って禁止する。

税金の無駄遣いが問題になれば、無駄遣いした政治家と官僚を責めればいいと考える。

温暖化が問題になれば、二酸化炭素の排出を減らせばいいと考える。

問題が発生した原因を調査し研究し判断し、根本的な解決を目指すのではなく、
表面的に問題として現れた現象だけを抑えればいいと考えているかのように感じます。

病気の治療も同じです。

痛みがあれば、薬で抑える。

熱があれば、薬で下げる。

腫瘍があれば、手術で切り取る。

病気の根本的原因を探り、病気にならないようにすることを治療とは考えていないような感じがします。

メタボ検診なるものの案内がうちにも来ました。

病気予防というコンセプトはいいと思うし、 生活習慣、食生活などを指導する方法は悪くはないと思いますが、 方法論は対処療法的です。ウエストのサイズと血糖値、コレストロールなどごく限られた検査項目の数値を下げることが、直接的な目的のような印象です。

最初に整体というものに抱いていたイメージも、対症療法的でした。
考え方そのものが、表に現れた現象(症状)を消す、抑えることが問題解決だと無意識に刷り込まれたいたのだと思います。

対症療法はもぐら叩きと同じです。
一つ叩き潰せたとしても、じきに別のところに顔を出す。
その繰り返しです。 原因をつきとめ、それを解決しようとしないからです。

整体を対症療法的に行う方法もアリだと思いますが、私はクライアント(患者さん)には再発しなくなることを目標にしていると言っています。だから、根本的な体調が乱れても、自力で経過できるような状態まで持っていくことを、目標にしたいと思っています。

症状を再発させないためには、やはり生活習慣を変える必要があります。 それをいかに抵抗感を少なく、自発的にしてもらうかが実現のポイントになります。

それと心の問題も大きいと感じています。
腰痛だって、ストレスが原因の場合があります。
考え方の方向性、心に常に持っているイメージ、思考パターン、感情や情動の発現パターンも変えないと、症状は異なっても、いつか再発してしまうリスクを抱えたままです。

全ての人は必ず死にます。体の衰えは自然なことで、体調に波があり、不調が現れることも自然なことですが、 私の理想は、不調は自然に経過し(治まり)、やがて自力でいい体調に戻ることと、 死ぬときには、やりたいこと、やるべきことをやりつくし、全ての力と能力を使い切って、 静かに自然に死んでいくことです。

私の施術(体の調整)を通じて、一人でも多くの人に、この世での最期のときまで、健康で楽しく幸せに過ごしていただければと思っています。

会話も施術のうち

会話が施術に果たす役割は大きいと感じる今日この頃です。

特に不定愁訴と呼ばれる、病院の検査では異常がないと言われている、心身の不調を抱えた人たちにとっては…

うちの場合は、症状がひとつだけという方はむしろ少ないです。 首肩のコリと痛みがあり、腰痛もたまにあり、腕がしびれることもある、というようなケースはよくあります。

施術はそれぞれ個別に対応するわけではなく、全身を調整し、自然に回復していく過程を促進し、それでも残る不調は個別に対応する、というのが、一般的な施術の進め方、手順です。

しかし、それだけでは十分でない方もいらっしゃいます。

例えば…10年以上、体の不調が続いている方。
症状は多岐に渡っています。

・喉からお腹にかけての違和感
・顎の違和感と痛み
・倦怠感
・頭痛
・めまい
・背中のコリと痛み
・食欲不振
・不眠
・不安感、漠然とした心配

などなど

全ていっぺんに出るわけではありませんが、施術で一箇所改善しても、もぐら叩きのように、次の症状が出てくる感じです。

病院にも通っていらっしゃいますが、基本的には安定剤など症状に対応する薬を処方されるだけのようです。

施術後に体の感じ方、気分などを尋ねても、軽くなったことは自分からは伝えず、残っている痛みや不快感、違和感を伝えられます。

回復が遅い人に共通の傾向ですが、症状が多いだけに、個々の症状を追っていくような施術をしても、いたちごっこの気分になることも…

もちろん、胃に不快感を感じていて食欲がない、と真っ先に言われた場合は、全身の調整の後に、胃に対する手法を試みることもあります。 それで、夕食は食べられそう、という状態になることが多いことは確かですが、それで胃に関しては全て解決!ということにはなりません。施術効果の持ちが悪いというか、症状を呼び出してくるような感じがすることもあります。

あるとき自分の施術がこの方の回復に役立っているか、改めて聞いたことがあります。といっても直接ではなく、この人の潜在意識にですが。

初回の検査時に、自分の施術で回復するかどうかは必ず(潜在意識に)尋ねますが、そのときは、私の手に拠る施術(手技だけの施術)が効果を上げているかどうか?と尋ねました。

答えは「No」

ちょっとショックでしたが、半ば予想はしていたことでした。

もちろん、これだと、施術を中止しなければなりません。私の整体師としての良心に照らし合わせても、何度か確認しても、効果が無い、と出たら、施術しても無駄(効果がない)だと伝えることにしています。

そこで、会話は回復に役立っているか?と尋ねました。

答えは「Yes」

さらに、会話を前提とした手技に拠る施術は、効果が上がっているか?
と尋ねました。

答えは「Yes」

つまり、精神的、心理的な面への働きかけが無い場合は、(この方のようなケースの場合)施術は効果が無いということです。

確かに、この人の場合、施術時間と比べて、最初に会話している時間がかなり長いです。会話といっても、私がきっかけになる質問をすると、この人がずーっと自身のことを話し、それに対して、内容を掘り下げるような質問を自分がしたり、今後の方向性のようなアドバイスをしたりすると言う流れになります。

金銭を媒介とした仕事であり、来院される方は、確実に目的を持って来ています。痛みや不快感から解放されたいという明確な目的を持って。

当然ながら、患者さんはその点に関してはほとんどの方は真剣です。判断基準がどうあれ、自分にとってここは必要かどうかははっきり判断しています。

だから、こちらも回復できないときは、はっきり伝える責任があると思っています(私の場合は、「改善」ではなく「回復」するかどうかを、最近は聞くようにしています。多少軽くする程度でも「改善」に入るからですが、それでは私自身は納得できないし、患者さんも安くもない料金を払うのだから、ドラッグストアの鎮痛剤程度の効果では、納得しないと思うからです)

今回のことでわかったことは、施術は手に拠る技術だけではないということです。とはいっても、何も流暢で楽しい雰囲気の会話が必要だとか、施術の前提だとか、私は言うつもりもないし、必ずしもそうは感じていません。スマイル・セラピーをするつもりもありませんし…

施術者が必要とする「会話術」とは、症状を維持する方向で感じ、考えている患者さんの精神的傾向を、会話や施術を通じて、方向転換させることだと思います。

年齢と経験と知識は、新たなことを始めるハンデになることがありますが、この仕事においての会話術に関しては、アドバンテージになっているようです。とは言っても、会話というか、カウンセリングの実際的な技術を勉強する必要は感じています。

イメージトレーニングと整体

毎日オリンピックを見ています。
世界の超一流アスリートをまとめて見れる機会は、オリンピック以外にないからです。

ボルトの100メートルは凄かったです。 ゴール前で余所見してたから、9.69秒でもまだ余力があるようでした。

良く観ていると、選手はレースの前に目を瞑ったりして集中力を高めているようです。解説者によると、そのときに、理想のレース展開や競技のイメージを浮かべているらしいです。

科学的にも、体を動かすイメージを浮かべると、それに対応した筋肉が刺激を受けることがわかっています。

逆に、怪我などした治癒した後で、肉体的には回復していても、負傷時の痛みの記憶が強かったりして、負傷した部分を使うことに恐怖感を持ってしまった場合は、なかなかその部分を使えるようにならなかったり、体が動かないようです。 これは人に限らず、犬や猫などの動物でもあるようです。

だから、肉体的な治療と同時に、心理的な面でも「大丈夫、この腕は今まで通り使える」というように思い込ませ、不安を払拭することが必要になってきます。

それをさらに先に進めてみると、(足を)骨折していても、体を支えているのは筋肉の緊張なのだから、歩けると思い込ませると、歩けるし骨も早くつながるという話を聞いたことがあります。

整体の施術も同様で、漠然と機械的に手技を実行していても、効果がないとは言いませんが、目的意識がある場合と比べたら、効果が低くなると思われます。

これは施術者(整体師)だけの問題ではありません。施術や治療は患者と施術者の協同作業ですから、患者(受ける側)も、自分がどこを何の目的で施術されているのか意識することが、治療(施術)効果を高めることになるはずです。

肉体と心はひとつというのが、私の信じる整体の信条なので、施術中に心と体がバラバラで、別の方向を向いていたら、効果的な施術ができないと思っています。
だから、毎日、施術する前に、精神統一するようにしています。

行動の意味を知る

先日、所属団体の技術研修会に参加してきました。

最近は、自分の技がいまいちの点は、わかるようになっているので、 その部分を特に指定して、ベテラン講師の先生に見ていただきました。 案の定、形だけはそこそこでも、技の本質的なことをわかってないものは、指導の先生のものとは、患者役の方の体の動きは違っていました。

午前のパートナーは、腰と股関節付近が痛むということで、練習というより、治療になりましたが、ほぼ痛みは消えたとよろこんでくれたので、私もうれしく感じました。

午後からは応用手技の練習でした。

全てを使うつもりで手技のレパートリーを全部見てみると、 最初に感じた以上に種類があると感じました。 それらの全てを最適な場面で使えて、しかも患者さんに手技の効果と意味を的確に説明できるようになることは、技を知れば知るほど、 そうカンタンにできることではないと感じました。

私の使っている手技と施術方法は、基本的に、力で体を変えるものではありません。
手技と力のかけ方は、体に変化のきっかけを与えるためで、その技を使って、どう体を変化させたいのか的確にイメージすることの方が重要です。それと自律神経の働きを使う手法なので、患者さんの呼吸を観て、それに合わせること、呼吸の力を使うことも大切です。

研修でも、それがわかってないと、練習の意味が希薄になるということ以上に、危険を伴うことがわかりました。 研修が終わって駅の階段を昇り降りするときに、膝の両端に痛みが走りました。思い当たることは、下肢の練習です。練習相手は、まだ経験の浅い方でした。呼吸は無視、自分自身が人一倍力があるのに、弱いと物足りないというような理由からか、その力加減のまま、相手(私)に技をかけていました。 しかも、世間的常識の「(大きな)力をかければ、ものは曲がったり変化する。力が弱いと変化しない」というような思い込みが強いような人でした。

単に、相手の腕や脚などを強く握ったり、多少捻った程度では、体はそう簡単には壊れないと私も思いますが、考え抜かれた技で、力を入れるポイントを押さえて、必要以上の力をかければ危険です。場合によっては、簡単に体を壊してしまいます。

自分がやっていることの効果を信じていない。もっと言えば、自分が習った手技の本質を理解してない、効果を疑っているような人、さらに、相手のことが観えてなく、意識が自分の方や自己満足にばかり向いている感じの人は、施術をする意味も効果もだけでなく危険だと思います。

これを広げて考えると、自分がやっていることの意味と、それが他者(相手や社会)に及ぼす影響や効果を考えないで、ただ習った通り、惰性でやることは、人生の意味を希薄にすると思います。

どんなに貴重な知識を学んでも、優れた技を教えてもらっても、自分自身ではその意味を考えずに、適当にいいかげんに、形だけやっていても、進歩しないでしょうし。

膝は帰宅してから、自分でできる手技を施し、風呂にゆっくりつかったら、翌日には痛みはほぼ消えてました。

これは、ちょっと危ないかなと感じたにも関わらず、技の力を甘くみていて、注意しなかった自分の責任でもあります。でも、(膝が)痛い人の辛さが改めてわかったことと、適当に手技を使う危険性を認識できたました。いい教訓だったと思っています。

アーユルベーダ体験

整体師になるための勉強をはじめようと思った頃のことですから、数年前になります。前から行きたかったスリランカに19日間旅行してきました。

行く前に読んだ精神世界に関する本に、アーユルベーダについて書かれていました。スリランカでもアーユルベーダによる治療が広く行われていて、外国人でも体験できる施設がいくつかあります。僕は特に身体に不調を抱えていたわけではないのですが、興味があったので、2時間ほどのコースを体験してきました。

ハーブオイルを使ったマッサージは気持ちよく、体全体がほてったような感じになりました。頭皮のマッサージもしてもらったのですが、その後心なしか、額の左右の生え際が気になっていたのが、多少は目立たなくなったような気がしています(笑)

身体が気持ちいいこと、体調がいいこと、それだけで人は幸せを感じるものだと思います。病気の症状だとか検査の数値的なことよりも、自分が快適に生きていることが大切だと思います。

いま、ここにいること

体力と気力も使い果たしたことはありませんか?
いつも元気で明るくなんて、理想かも知れないけれど、僕にはできない相談です。
そんなとき一言つぶやいてみます。
「いま、ここに、生きているだけでいい」

本当はそんなこと、言ってくれる人はいません、めったには。
同僚、上司はもちろんのこと、親兄弟、親戚、親友、知人でもあまり期待できないかな…

でも、一番、愛とまでは言わないけれど、思いやりと肯定感に満ち溢れている表現は、これだと思います「ただ、そこにいてくれるだけでいい」。

いまの、日本とは限りませんが、生きる価値って何かを成すことだと思います。ただ生きているだけでは十分でなくて、何か創造的というより、生産的、お金に換算できることをすることに価値が置かれているのは、否定しようもない事実です。

そんな価値観を微塵も疑問に感じずどっぷりと浸かり、しゃにむに働いている姿がそこらじゅうに見えます。満員電車の人たちはみな一様に不機嫌か、雑誌や携帯の画面に見入っています。市街地で子供も含めて、いまどき、無目的にぶらぶらしている人は、渋谷のセンター街やコンビにの前でしゃがんでいる若者以外、あまり見かけることはありません。

藁しべ長者の話に似ていますが、僕が好きな話に「三年寝太郎」というのがあります。寝てばかりいる太郎に、ちゃんと働かないと金持ちになれないと説教するのですが、金持ちになったらどうなる?という太郎の質問に、働く必要がなくなって毎日寝て暮らせる、と答えが返ってきます。すると太郎は、それなら、俺はいま、もうそうしている、と答えるのが落ちです。

なんか怠け者の言い訳、屁理屈のようにも感じますが、でも、これは生きる目的や働く目的についていろいろと考えさせてくれる話です。

なんで働くのか?なんで働かないといけないのか?なんでいま、ここに生きているだけじゃいけないのか?それと、今の生きる価値観というのは、学校でも会社でも家庭でも、将来のために今を犠牲にしても準備し努力するというコンセプトが根底にあるように感じます。でも、これって永遠に(死ぬまで)、実現すべきゴールを先送りするってことだと思いませんか?

「いま、ここで、すぐに実現すること、やりたいことをはじめること」僕が高校生の頃から考えていた生きるコンセプトです。キャッチコピーは「いまがすべて」。

死ねば、本人にとっては、(少なくとも)物質的なものは全て無に帰します。物質的なものやそれを生産するための産業や経済は、方便、方法、手段に過ぎないことを、いま、この時点で再認識することが必要なのではないでしょうか?

整体師になって、人間の身体と心、精神のこと、そしてそれと密接に関わりのある生活環境と自然環境のことも深く考えるようになって、人にとって、自分の人生にとって、何が本質的なことか?何が大切なことか?何が自分の人生を意味あるものにするのかが、以前よりわかってきたような気がしています。

整体師になった訳

子供の頃大病をしました。腎臓がうまく機能しなくなったそうです。3ヶ月ほど自宅で寝ていた記憶があります。医者からは助からないかも知れないと言われていたそうですが、母が作ってくれた塩分を徹底的にひかえた食事を摂り、ただただ安静にしていただけですが、なんとか命をとりとめました。

高校生の頃、痔になりました。自分の肉体の一部でありながら、まだ見たことのない部分が具合が悪くなったので状態を確かめたくて、鏡で見ました。こうなってたのかと新鮮な感じでした。恥ずかしかったので家族には黙ってました。もちろん医者にも行きませんでした。家庭の医学書で「痔」を調べ、書店で関連書籍を立ち読みし、たまたま手にしたヨガの本に痔の治療法が書いてあったので、早速実行しました。頭でする逆立ちを一日30分間続け、肛門を清潔に保ち、排便の時間を10分から5分に短縮しました。その成果があってひと月ほどで治りました。自分で自分の肉体を治療できるのだと感激しました。

会社勤めをしていた頃、社員旅行などで旅館やホテルに泊まる機会があると、ちょっとぜいたくしてマッサージを頼むのが楽しみでした。身体が性的な意味でなくて、純粋に気持ちいいというだけで幸せを感じました。

ヨガを習っていたことがあります。生徒同士でするマッサージのようなものを教えてもらいました。整体で言うところの「ほぐし」です。僕と組んだ人はみな「気持ちいい」と言ってくれたのがうれしかったことを覚えています。

父の臨終の数時間前、もう意識がなく呼吸だけをしている状態のとき、指を揉んであげました。もう呼びかけに反応しなくなった父のために、最後に何かしてあげたかったのです。声による問いかけには反応することはありませんでしたが、指を揉み始めて数分後に、身体が反応しました。上半身と顔を動かしました。意識は戻りませんでしたが、問いかけに身体で応えてくれたようでうれしかったです。

整体師になろうと思った、もう一つの動機は、自己の身体性、身体感覚を取り戻したかったことと、肉体を持つ存在としての他者と出会いたいと思ったからです。

日本では、最近は握手する人もたまにいるが、基本的には、他人同士の身体的接触はごく限られており、視覚と聴覚に頼った関わり方しかできない場合が多いと思います。

しかし整体師という職業では、他者(クライアント)の身体に直接触れることができます必然性を持って。それが自己の身体性の復活にもつながるのではないかと、整体を勉強始める前から、漠然とですが、思っていたようです。

日本では、伝統的にはハグや握手の習慣はありません。身体的接触は、特に異性同士の場合、身体的な接触行為は性的な意味が全面に出てきます。性的な意味を離れて、皮膚感覚を通じて、コミュニケーションをはかったり、癒したり、慰めることが、自然にはしづらい雰囲気があると感じています。

施術ではそれが必然性を伴って自然にできることがうれしいし、自己の身体感覚を感じることにつながります。これらのことが整体を習おうと思った動機の背景にあります。