アーユルベーダ体験

整体師になるための勉強をはじめようと思った頃のことですから、数年前になります。前から行きたかったスリランカに19日間旅行してきました。

行く前に読んだ精神世界に関する本に、アーユルベーダについて書かれていました。スリランカでもアーユルベーダによる治療が広く行われていて、外国人でも体験できる施設がいくつかあります。僕は特に身体に不調を抱えていたわけではないのですが、興味があったので、2時間ほどのコースを体験してきました。

ハーブオイルを使ったマッサージは気持ちよく、体全体がほてったような感じになりました。頭皮のマッサージもしてもらったのですが、その後心なしか、額の左右の生え際が気になっていたのが、多少は目立たなくなったような気がしています(笑)

身体が気持ちいいこと、体調がいいこと、それだけで人は幸せを感じるものだと思います。病気の症状だとか検査の数値的なことよりも、自分が快適に生きていることが大切だと思います。

いま、ここにいること

体力と気力も使い果たしたことはありませんか?
いつも元気で明るくなんて、理想かも知れないけれど、僕にはできない相談です。
そんなとき一言つぶやいてみます。
「いま、ここに、生きているだけでいい」

本当はそんなこと、言ってくれる人はいません、めったには。
同僚、上司はもちろんのこと、親兄弟、親戚、親友、知人でもあまり期待できないかな…

でも、一番、愛とまでは言わないけれど、思いやりと肯定感に満ち溢れている表現は、これだと思います「ただ、そこにいてくれるだけでいい」。

いまの、日本とは限りませんが、生きる価値って何かを成すことだと思います。ただ生きているだけでは十分でなくて、何か創造的というより、生産的、お金に換算できることをすることに価値が置かれているのは、否定しようもない事実です。

そんな価値観を微塵も疑問に感じずどっぷりと浸かり、しゃにむに働いている姿がそこらじゅうに見えます。満員電車の人たちはみな一様に不機嫌か、雑誌や携帯の画面に見入っています。市街地で子供も含めて、いまどき、無目的にぶらぶらしている人は、渋谷のセンター街やコンビにの前でしゃがんでいる若者以外、あまり見かけることはありません。

藁しべ長者の話に似ていますが、僕が好きな話に「三年寝太郎」というのがあります。寝てばかりいる太郎に、ちゃんと働かないと金持ちになれないと説教するのですが、金持ちになったらどうなる?という太郎の質問に、働く必要がなくなって毎日寝て暮らせる、と答えが返ってきます。すると太郎は、それなら、俺はいま、もうそうしている、と答えるのが落ちです。

なんか怠け者の言い訳、屁理屈のようにも感じますが、でも、これは生きる目的や働く目的についていろいろと考えさせてくれる話です。

なんで働くのか?なんで働かないといけないのか?なんでいま、ここに生きているだけじゃいけないのか?それと、今の生きる価値観というのは、学校でも会社でも家庭でも、将来のために今を犠牲にしても準備し努力するというコンセプトが根底にあるように感じます。でも、これって永遠に(死ぬまで)、実現すべきゴールを先送りするってことだと思いませんか?

「いま、ここで、すぐに実現すること、やりたいことをはじめること」僕が高校生の頃から考えていた生きるコンセプトです。キャッチコピーは「いまがすべて」。

死ねば、本人にとっては、(少なくとも)物質的なものは全て無に帰します。物質的なものやそれを生産するための産業や経済は、方便、方法、手段に過ぎないことを、いま、この時点で再認識することが必要なのではないでしょうか?

整体師になって、人間の身体と心、精神のこと、そしてそれと密接に関わりのある生活環境と自然環境のことも深く考えるようになって、人にとって、自分の人生にとって、何が本質的なことか?何が大切なことか?何が自分の人生を意味あるものにするのかが、以前よりわかってきたような気がしています。

整体師になった訳

子供の頃大病をしました。腎臓がうまく機能しなくなったそうです。3ヶ月ほど自宅で寝ていた記憶があります。医者からは助からないかも知れないと言われていたそうですが、母が作ってくれた塩分を徹底的にひかえた食事を摂り、ただただ安静にしていただけですが、なんとか命をとりとめました。

高校生の頃、痔になりました。自分の肉体の一部でありながら、まだ見たことのない部分が具合が悪くなったので状態を確かめたくて、鏡で見ました。こうなってたのかと新鮮な感じでした。恥ずかしかったので家族には黙ってました。もちろん医者にも行きませんでした。家庭の医学書で「痔」を調べ、書店で関連書籍を立ち読みし、たまたま手にしたヨガの本に痔の治療法が書いてあったので、早速実行しました。頭でする逆立ちを一日30分間続け、肛門を清潔に保ち、排便の時間を10分から5分に短縮しました。その成果があってひと月ほどで治りました。自分で自分の肉体を治療できるのだと感激しました。

会社勤めをしていた頃、社員旅行などで旅館やホテルに泊まる機会があると、ちょっとぜいたくしてマッサージを頼むのが楽しみでした。身体が性的な意味でなくて、純粋に気持ちいいというだけで幸せを感じました。

ヨガを習っていたことがあります。生徒同士でするマッサージのようなものを教えてもらいました。整体で言うところの「ほぐし」です。僕と組んだ人はみな「気持ちいい」と言ってくれたのがうれしかったことを覚えています。

父の臨終の数時間前、もう意識がなく呼吸だけをしている状態のとき、指を揉んであげました。もう呼びかけに反応しなくなった父のために、最後に何かしてあげたかったのです。声による問いかけには反応することはありませんでしたが、指を揉み始めて数分後に、身体が反応しました。上半身と顔を動かしました。意識は戻りませんでしたが、問いかけに身体で応えてくれたようでうれしかったです。

整体師になろうと思った、もう一つの動機は、自己の身体性、身体感覚を取り戻したかったことと、肉体を持つ存在としての他者と出会いたいと思ったからです。

日本では、最近は握手する人もたまにいるが、基本的には、他人同士の身体的接触はごく限られており、視覚と聴覚に頼った関わり方しかできない場合が多いと思います。

しかし整体師という職業では、他者(クライアント)の身体に直接触れることができます必然性を持って。それが自己の身体性の復活にもつながるのではないかと、整体を勉強始める前から、漠然とですが、思っていたようです。

日本では、伝統的にはハグや握手の習慣はありません。身体的接触は、特に異性同士の場合、身体的な接触行為は性的な意味が全面に出てきます。性的な意味を離れて、皮膚感覚を通じて、コミュニケーションをはかったり、癒したり、慰めることが、自然にはしづらい雰囲気があると感じています。

施術ではそれが必然性を伴って自然にできることがうれしいし、自己の身体感覚を感じることにつながります。これらのことが整体を習おうと思った動機の背景にあります。